情報の空白

ひょうご・まち・くらし研究所監事 光森 史孝


 「情報の空白」が生じたのは、なぜなのか。あの朝、壊滅した神戸・三宮の街角に立って、痛切に感じたのは、このことだった。

 阪神・淡路大震災の発生直後、私たちは、真っ暗闇の中で恐怖と寒さに震えながら立ちすくみ、あちこちで上がる火の手に助けを求めて右往左往した。救助の手は、余震は、どこへ逃げたらよいのか。情報が全くない空白の時間が続いた。

ちょうど半世紀前の一九四五年、神戸をはじめ阪神間各地は、この震災と同じような惨禍に見舞われ、多くの犠牲者が出た。その体験が「風化」したと危惧されている中で再び襲った惨禍。五十年前は戦争による空襲、今回は自然災害という違いはあるが、建物、住民が密集する大都市で破壊と炎が市街地を覆い尽くしたということでは、多くの共通点を持っている。再び体験を「風化」させないために、ここでは「情報」に絞って、課題を整理しておきたい。

第二次世界大戦の末期、米軍は日本に対して、従来の軍事施設への攻撃から「戦略爆撃」と位置づけた一般都市への空爆に方針転換していた。都市を焼き尽くし壊滅させることで国全体の戦意を喪失させる目的だった。この年三月、東京、名古屋、大阪、神戸と矢継ぎ早やの空襲。市民は雨のように降り注ぐ焼夷弾をかいくぐり、倒れた肉親を助けようもなく炎の中を逃げ惑った。神戸市だけで死者八千人、兵庫県域では約一万二千人と推定されているが、実数はいまだ未確認のまま。犠牲になった人の名前も、まだ確定されていない。

私たち「神戸空襲を記録する会」(中田政子代表)は、その時の体験を聞き取って記録し手記を集めて刊行、各種の資料も集めて、次の世代へ語り継ぐ活動を続けてきたが、その中で「米国戦略爆撃調査団報告書」が公開されていることを知り、神戸空襲の記録を入手した。この報告書は、米軍が空爆をした各都市の破壊状況を自らの手で精密に調べたもので、被害状況と合わせ日本の空襲・防災計画の甘さを指摘し、軍事体制下で情報が不十分だったことが犠牲を大きくしたとも分析している。

この教訓を生かし切れなかった悔いと、マスメディアの一員として、兵庫県域の情報通信を整備・活用する業務に携わっていながら、情報の空白を生み出してしまった反省をもとに、震災直後から周辺の人たちに呼びかけて、問題点の整理を始めた。同じような思いをかみしめていたマスメディア、情報通信の関係者、地方自治体職員、大学の研究者たち、兵庫ニューメディア推進協議会の活動を支えていたメンバー約三十人が論議に参加した。それぞれに自宅や勤務先が被害を受け大変な時期だったが、リュックを背負い、会場を転々としながらの論議。そしてまとめたのが「災害時の情報空白を埋めるための緊急提言」だった。

情報通信にかかわる多様な提言だったが、主な点は

@情報の収集・伝達を専門に行う「情報団」をコミュニティごとに設ける

A避難場所となる防災拠点の情報機能を高める

B経験を蓄積するデータベースを構築し、緊急時にどこからでもアクセス
   
して利用できるように、世界的なネットワークを構築する

などだ。

@ の「情報団」は、災害の発生時、コミュニティの役割の重要性が再認識されたが、その中で情報を専門に扱う人を育て組織化しようというもの。任務はコミュニティ内の情報を収集し伝達するとともに被害の状況などを公的な防災拠点に伝え、折り返し救急隊の到着状況、食料、飲料水の有無などをコミュニティに持ち帰る。その際、電子機器を活用し映像の撮影、インターネットによる情報の授受を行う。

A 防災拠点は、小・中学校、公民館などの公的施設が避難所になり多くの住民が集まったが、電話が二回線しかなく情報のネックとなった。また情報通信機器もほとんどなく、避難者の掌握、救援要請などが行えない弱点が明らかになった。これらのことから、防災拠点ともなる小・中学校などの通信回線と情報機器の整備を求めたものだ。

B は災害の被害状況だけでなく、その後の救援活動、復興支援など蓄積した多くの経験を整理し、コンピューターに収納、公開し、いつでも、どこからでもアクセスして利用できるようにする。災害の規模、状況などは多種多様なので、世界的に災害を経験した地域が、それぞれに同じようなデータベースを構築し、災害の状況に応じて、アクセスして利用できるようにする。そのために、まず阪神・淡路大震災を経験した神戸から発信しようという提言だった。

 これらの提言を国、兵庫県、神戸市はじめ県域の各市町、関係団体、企業などに届け、具体化を要望した。それから十年。大きく前進した制度、組織もあるが、まだ不十分なまま放置され、二次災害を繰り返していることが多い。

 @ は、各地に自主防災組織が生まれ、防災無線など情報伝達機器は整備
   
されたが、本当にコミュニティに根付いて情報を収集・伝達できる
   
組織は、まだ少ない。
   
二〇〇四年秋の台風や地震で、残念ながら弱点が明らかになった。

 Aもまだ十分ではない。

 Bは二〇〇五年の国際防災会議の「兵庫戦略」として、ようやく陽の目
   
を見ようとしているが、地球規模では、まだ緒についたばかりという
   
現状。

戦災、震災ともに、また「風化」が取りざたされている。その中で、災害を記録し、語り継ぐ作業が、粘り強く継続されることを願う。