サイレント・マジョリティ

第十巻編集委員 浜田 尚史


 阪神大震災を記録しつづける会の「手記集第十巻(最終巻)出版プロジェクト」第一回編集会議が今年(平成十六年)十月二日、兵庫県民会館で行われ、私も参加しました。

 高森代表が、公募手記について説明を続ける中に一通、お名前も住所も書いていず、「女性」で「主婦」(明石の消印)ということだけがわかる手書き原稿がありました。

「どう思われますか」と尋ねられました。高森さんは、応募要項を満たしていないものの、心に留めておくものがあると感じていて、その原稿を私に差し出したという様子でした。

 私はさーっと目をやったあとに、空気感があるというのか、不思議な風が吹いていくような文章だと思いました。以下に後半の全文を紹介(カッコ内は編集者が補足)させていただきます。

 

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 あれから十年になります。

 元気そうに見える私ですが心はまだまだです。

 小さな誤解から、主人と、車で二十分くらいのところに住んでいる妹の仲がうまくいきません。

 今までお互いに何かと気にかけていたのに知らん顔です。中に入って、私もどうしたらいいのか。詳しく伝えなかった私が悪いのかと思うけれど、いまさらどうにもなりません。

 世の中、一つのものを分け合って、雑魚寝でも一緒にいられる(家族もあるのに)。そのとき、皆そう思ったでしょう。

でも行政の手は私たちには届きませんでした。おにぎりを貰いにいかなかった私が悪いのか。仮設住宅に申し込まなかったのが悪いのか。私は(公的支援を)とりこぼしてしまったのです。

 今は家もでき、職もあって、以前と変わらぬ生活をしているように思い、また思われていますが、ふと心が風邪を引いたようになることがあります。

 負けまい、早くもとの生活にとあせり、頑張った付けが今ものしかかってきます。

 子どもも大きくなり、「おばあちゃん」と呼ばれるようになったけど、

 さびしいです。

 今もさびしいのです。

 さびしいのです。

 

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 私は、「大変な被害を受けたのではないだろうが、この方が書かれているのと同じような思い、さびしさを口に出すことなく、胸のうちに抱えている人は結構大勢いるのではないでしょうか」という意味のことを答えました。

 文章の最後のあたりで、行政や仮設住宅や公的支援といった具体的な言葉が出てきて、震災後のこの方を取り巻く状況が変わってしまったことが暗示されていますが、実際にどういう出来事を経験されたのかまでは、私にはわかりません。肉親や家を失ったという被害ではないと思いますが、経済的な状況や、何の問題も生じるはずがなかった人間関係のちょっとしたつまずきから、心に隙間が出来、ピューピュー風が入りはじめたという印象です。しかし「揺れ」そのものの地震に対し、この文章からは、最近余り言われなくなった言葉を使うと、「揺らぎ」というのがあてはまるような感覚を感じます。心地よい感情とさえ呼んでもいいものです。

 いや、これは匿名の方の、心の中にズカズカ入りこんでいるのと同じで、申し訳ありません。ただ、書いたご本人はつらい思いを抱えておられるかも分かりませんが、読む側は何か、爽やかとしか言いようのないものを感じるのです。また、被災した人の置かれた状況はみな違いますが、同じように「心が風邪を引いたようになって」、さびしい(!)と言ってみたいという人は大勢いると思います。

筆者がこの本を読まれたら、ぜひ高森さんに連絡を取っていただきたいものです。私の文章の中に含めてしまうような形で掲載させていただいたことについては、勝手と失礼をお詫び申し上げます。

私は震災当時、阪神大石駅から近い、神戸市灘区灘南通のワンルームマンションで一人暮らしをしていました。揺れだしてすぐに目が覚め、後ろ頭に枕をかぶるようにあてたのを覚えています。日記を付けたことはほとんどないのですが、震災当日の一月十七日から二月三日までだけ、ほとんどメモ書きに近い日記が残っていて、地震直後のことは「本、CDガラガラとくずれる 皿ガチャガチャわれる 家具テレビこける ワァーという声」と書いています。

十四インチのテレビと、テレビと同じ位の高さの、ステレオのスピーカー二つがラックから床に落ちました。暖房につけていた「デロンギ」のヒーターは、コードが思い切り引っ張られてプラグが抜けました。ワァーというのは、自分で叫んだのでしたが、揺れがおさまってからは、日記には書いていませんが、遠くから「たすけてー」という女性の声が聞こえました。

自分の住むマンションは築三年で無事だったものの、周辺のマンションも、一戸建ちもほとんど全壊し、亡くなった人も多かったですから…。キッチンとユニットバスの間の狭い短い通路は、ガチャガチャ割れた皿で埋まりましたが、歩ける程度に片付けて、スーツを着てもムダだろうと思い直して、トレーナーとジーパンを着て、玄関から外へ出たのは地震の二時間後くらいでした。

徒歩で、あちこち一戸建ちの家がペシャンコにひしゃげている中を通り抜け、三宮に出ると、勤務先のある新聞会館も、そごうも見事につぶれていて、プランタン(今はダイエー)一階の「ニュース堂」で食料用のお菓子を買い、神鋼病院近くの、ガス臭い道を歩いてマンションの部屋へ戻りました。電気、ガス、水道すべて不通でした。

当時の記憶を取り止めなく書くのは措いて、短い期間のメモからあらためて思い出したことを挙げると、地震当日の最後に「何度も余震が 一睡もせず」と書いているのですが、当日はもちろんのこと、その後もかなりの間、余震が数多く起きていたことが一つです。余震がとても怖く、余震で被害を受けた方も多かったのですね。また個人的な事柄なのですが、この頃、学生時代の友人や、仕事先で世話になった方で何年も会っていないような人に偶然出会うことが何度もありました。交通が寸断されて、街中を歩く機会が増えたからでしょうか。

 震災当時というか、震災の年の出来事でどうしても忘れられないのは、オリックス・ブルーウェーブ(以下BW)の優勝です。私はこの年のBWは言葉の意味通り、文字の通りの「市民球団」を実現していたと思います。

イチローが、キャッチボールをしながら、体を真半分に折り曲げ、背中の上にあてたグラブにボールをスポッと収める「背面キャッチ」を見せ、うれしそうに笑い、喝采が起きる。藤井や田口といった先輩の「名外野手」がマネをするが、捕れず、笑いが起きる。今のはわざと捕らんかったんや、というそぶりを見せる選手に対して、あれはイチローでないと無理やで、と口に出さずに伝えるファン、先輩に、どうだという顔を「わざと」してみせるイチロー、それで笑いが大きくなってぎっしり埋まったスタンドが盛り上がる。確かにこういう対話があったのです。そして何度もこの光景を見ました。

九月十七日、本拠地神戸で優勝を逃した試合は、市民球団BWの頂点と言える試合でした。抑えの平井(今、中日で日本シリーズに出場してがんばっています)が打ち込まれ、逆転されてしまったのに、降板してベンチに引き上げる際に起きたねぎらいの大拍手。自らも被災を経験したチームと、そのほとんどが大なり小なり震災の被害を蒙っていただろうファン(=市民)が完全に一体化していました。『ボクを野球場に連れてって』(綱島理友著、朝日文庫)という本の「まえがき」「グリーンスタジアム神戸」の項で、この試合の出来事と球場の雰囲気が文章で伝えられています。また『大リーグと都市の物語』(宇佐美陽著、平凡社新書)は、大リーグ球団が都市に貢献する要因の一つとして、「不調時の住民への激励(日本の例では震災後のオリックス)」と、大リーグ球団と市民・地域のつながりを論じた本であるのに、BWを例として挙げています。

 その後もBWは、ずっと「市民球団」であり続けました。球場職員が市民救護士の資格を取ったり、十二チームの本拠地で唯一、内外野総天然芝となった美しい(!)グラウンドを開放してラジオ体操をやったり、神戸市内の大学と連携して少年野球の指導を行ったり、台湾地震をはじめ国内外の災害復興支援募金も行い、日本のプロ球団では突出して地域活動に熱心なチームだということは、多くの市民やファンが知っています。

ところが球界再編の先べんをつけるように、神戸と大阪の両本拠地といいながら、ファン心理からすると神戸でもない、大阪でもない、「チュウトハンパやなあ」とぼやくしかない「統合」新球団になる(合併報道後、球団には電子メールで、神戸市長へは手書きの「市長への手紙」を利用して、神戸のシンボルとして存続してほしい旨を送りましたが)。

震災復興という言葉が定着したあと、神戸の経済に元気、活気がないと言われ続けてきました。「がんばろう神戸」のスローガンで、間違いなく被災した市民の心の拠り所になったチームが、今度は神戸の「不元気」をあえて引き受けたのだと、私は思うことにしています。一神戸市民、一ファンとしては、これで終わったとはかけらも考えていず、「市民球団」が再起動するために、自分でも微力を尽して何か行動できることはないのだろうか、と考えてみたいのです。

 地震で変わった身の回りの環境をあげてみると、全壊と判定され解体後、立て替えたプレハブ(いわゆる震災住宅)の実家に戻り住んでいること、家のローンが残っていること。震災時ラックから転げ落ちたスピーカーは、片側の頭に大きく擦れた白いキズが残っているものの、テレビと一緒に実家に戻り、健在です。震災後半年ほど空白のあと、再び集めはじめたCDを収めているのは通販で買った「天井つっぱりラック」です。本棚も同じ。震災直前に通販の分割払いで買い、一回目の支払いを終えていた「デロンギ」のヒーターは、地震のあと通販会社から、以降の支払い分はいただきませんという見舞いのはがきが届きました。お礼を言わなければと思いながら、何年もやり過ごしてしまいました。その後、新しい買い物の際だかに、お礼を振込書の通信欄に書き添えて送った、という記憶があります(いや、この記憶は確かかどうか怪しいです)。で、ヒーターも健在です。

 街中の風景では、リュックサックを持っている人が確実に増えたように思います。元々神戸は六甲山に登る人も多く、登山のためのリュック姿にはなじみがありました。震災後は「震災ルック」と呼ばれましたが、今はカバンの一つとして、完全に定着したと思います。これは震災後、必要に迫られて普及した習慣が、日常の生活に溶け込んだ例ではないでしょうか。関西私鉄連合のキャンペーン広告で一時、リュックが(場所をとるので)迷惑になる、という主旨のものがあり、リュックが悪いんやないやろう、とひどく腹を立てたことがありましたが、その後たしか、「荷物は網棚へ」という主旨のものが登場し、納得したものです。誰か実際に、リュックのかさを責める前に、スペースの有効利用を謳ってはと、指摘した人がいたのかも知れません。

 パラソルを立てて外で営業する弁当屋さんは震災当時から見慣れた風景で、今も神戸市内のあちこちで見かけます。

南京町の露店営業も、震災後の営業スタイルが町の名物として、観光で訪れる人にも認知されるようになったといえないでしょうか。

 ふだん私は十年前の記憶を特に意識することもなく、生活を送っています。ただ、この文を書いていて、何も変わらないように感じている日常の中に、ずいぶん変化があるのだということを少しだけ、意識できたように感じます。最初に掲載させていただいた手記を書かれた方は、目に見えないので、ほかの人に話していいのかどうか分からない変化に、自分が取り残されていくような感情と戸惑いを持たれ、その気持ちを訴えたかったのだと推測します。

それは、震災に遭遇した大部分の、自分の体験は人に語るような、大そうなものではなかったと考えている「サイレント」な人達の気持ちを形にしたものだと思います。しかし、大きな被害の記録は残りやすいのに比べて、ささやかな、あるいは些細な出来事、感情は意識して留めておかなければ、消えていってしまうのかも知れません。

この手記集が続いた大きな意義は、ささやかな体験が集積され、誰でもが自らを公開できる場所であったということだと思います。何をなすべきか、しなければならないか、と大上段に構えるのは私には正直なところ、しんどいのですが、小さな体験の開示が、「未来の被災者」に伝われば、それでいいのだと考えると、肩の力が抜けて楽になります。