震災が私に与えたもの

御蔵通五・六・七丁目町づくり協議会会長 田中 保三


 阪神淡路大震災は私の人生観、価値観をすっかり変えた。

 それは出会いに始まる。一月下旬の霙降る夜、ピースボートの仲間を新湊川公園にある大テントに訪ねた。その時対応してくれた若者、今は亡き梅田隆司君との解逅がそれだ。

ボランティアでごった返し、発電機の音がうるさくて、ドラム缶の中に廃材をくべ暖をとっているその喧騒の中、彼と目が合うなり、「用件は何ですか」と問いかけてくれた。

その表情のおだやかさ、言葉のやさしさが印象的だった。そして私をテントに招じ入れて、自分の丸椅子を私に譲って話を聞いてくれた。

私はそこである安堵感にひたった。

「なんと俺は、息子ほどの年の若者に安堵させられている。これは一体なんだろう。無財の七施(ものを施すのではなく、優しいまなざしや笑顔などの七つの態度による施し)とは聞いていたが、正にこれがそれなのだ」と納得した。それ迄は、「一個売ってなんぼの利益」を追求し、自分さえ儲かればよい人生を送っていた。それが、まだボンヤリとだが、この若者にそれとは別の世界があることを教えられた。不思議な空間だった。

確かに会社(長田区御蔵通五丁目)の被害は大きかった。全六棟中五棟が全焼、在庫商品九千五百万円が灰になり、車が十四台焼け、コンピューター十台、売掛帳、買掛帳等、昭和二十一年創業の会社の歴史すべてが灰になっていた。でも、幸にも社員は全員無事だったので、なくしたものを勘定するより、あるものを活かすことに専念しようとしたその矢先の出会いだった。

 その彼から「ピースボートが船で自転車八百台、プレハブ二棟を持って来ます。自転車はすぐ捌けるでしょうが、プレハブの方は分かりませんのでお願いします」と言われて、私のボランティア活動が始まった。プレハブは中古だったが、一棟建てると次々に欲しい人が現れ最終的には十数棟建てた。それらを認められてか、何時の間にか町づくり協議会の相談役にもなった。

 町づくり協議会に参加して、企業もまた町と距離をおいていてはいけないと思い始めた。今迄は自治会費や寄付を言われるままに払っていたが、それだけでは不十分だ。一旦緩急の際は、企業も町の構成員として、社員を動員してでも地域の被害を少なくすべきだし、平常時にもできる協力は積極的にすべきだ。そこで、一周忌慰霊法要や第二回花まつりには出動して、整地作業や看板書きの手伝いをした。

そしてやがて、各種のイベントを通して住民自立の道を知った。

誰かがやってくれる、ではなく、我々がやるのだ。また、やれば出来るものだ。本気になってやっていると実を結ぶし、行き詰まった時には誰かが必ず手を差し伸べてくれる。振り返ってみれば、ボランティアの若者の知恵と力があってこそ、私たちの町の人たちの活力も引き出せた。

● ボランティアSVA

 SVA(社団法人シャンティ国際ボランティア会)敷地を借りたいと言って来たのは、震災の年の六月下旬だったと思う。彼等の活動ぶりは見聞きしていたので、安心して敷地を提供した。

専務理事の有馬実成老師との出会いも忘れられない。震災の犠牲者の一周忌法要にあたって、老師は「下関からふぐ五千食を持って来よう」と言い、それを実現させた。おかげで当地は大変賑わった。この時の唐戸市場専務松村久さんは、徹夜で走って来て、仕事が終わると後片付を見事に終えて、さっさと帰られた。その手慣れた対応には驚くばかりだった。

 有馬老師と飛騨高山の高山別院で講演したあと、高山観光ホテルの浴槽につかりながら、

「今なんで私が、ここにいるのか不思議です」と言えば老師は、

「田中さんのボランティア精神は元々持っていたものです。震災によって顕在化したんですよ。人間は潜在能力が驚く程あるんですが、なかなか顕れて来ないんですよね」とおっしゃった。

老師からは沢山のことを教わった。心から兄事していたのだが、残念ながら急逝された。

 SVAの神戸所長だった市川斉さんとも互いに啓発しあった。二年目の三日間にわたる「みすが夏祭」の成功は、大勢のボランティアを指揮した彼の手腕による所大であった。彼と一緒に仙台や古川町へ行き七夕飾を頂く交渉に当ったこと、中新田の皆さんに飾り付けの要領を聞いている中に、皆さんがボランティアで行こうと言って、神戸まで数人が応援に来て立派に飾っていただいたことなど昨日の様に思い出す。

ほんとに熱い人は何処にもいる。その市川氏も今はSVAのアフガン事務所長で、彼の地で学校をつくったり、図書館をつくったりして大活躍している。

また、SVAの応援団である全国曹洞宗青年会の歴代会長さんには、毎年の慰霊祭の導師をつとめて頂いている。軽井沢の桜井朝教さん、秋田の寿松木宏毅さん、天草の荒木正昭さんと二年ずつ持ち回って頂き、その後を受けて兵庫の会長平岩浩文さん、そして現在は飯田天祥さんへと引き継がれている。

やはりトップに立つ人は品格、力量抜群で行動も素早い。見習う所ばかりだ。

荒木さんは天草から手弁当で、二十回余法話を続けてくださった。参加人数が少なくて恐縮すると、

「来るモンは来る。来んモンは来ん。人数の多寡ではないです。聞く人の心ですよ」と諭された。

会長さん方が集った時、慰霊モニュメントの文字を永平寺の管長さんにお願いしたいと話すと、すぐに引き受けてくださることになった。当時百歳だった宮崎亦保禅師に「鎮魂」と揮毫して頂けた。その墨痕は、モニュメントに輝いている。

禅師が加西市北条の「いこいの村はりま」に来られた時にお礼に伺うと、

「長田は大変だったね。良くなりましたか。私の親戚も長田で被災して、今は加古川にいます」と温かいねぎらいのお言葉を頂戴した。あの感激は忘れられない。

 

● 元日銀神戸支店長遠藤勝裕さん

 何時も「震友」と言って、神戸に来た時は必ず声を掛けて下さる遠藤勝裕さんは、震災時の日銀神戸支店長だ。多くの金融機関が倒壊したのに、被災地で金融パニックが起こらなかったのは、当日の昼前にはすでに、「金融特別措置」の通知文を手書きで(所長印は手書きのサイン)出し、その上ラジオに出演してすばやく告知した、遠藤さんの勇気ある行動のおかげだった。危機管理の大家、佐々淳行氏も激賞している。

倒壊して営業が出来ない十四の銀行に、日銀神戸支店の中で営業させたのは凄いことだ。互いに顔も十分知らない十四行の行員たちが、非常時のジャンパー姿のままで、日銀神戸支店内で行動するのを許したのだから、素晴しい人だ。

日銀電算情報局長時代に二、三度訪ねて以来、親しくさせて頂き、ボランティアグループ「まち・コミ」の顧問もお願いし、若い学生ボランティアの相談に乗ってもらっている。

 

● 台湾被災地との交流

 一九九九年九月二十一日、台湾に大きな地震があった。翌年一月十七日慰霊祭を終えた翌十八日から三泊四日で被災地に入り、埔里で倒壊家屋の荷物運びボランティアをやった。そして、神戸のことも話して来た。

台湾から帰った一月下旬、地元の方の要請で台湾での話をした所、「ぜひ現地へ連れて行って欲しい」と言われた。早速二月の下旬から三月上旬にかけて、高校を卒業したばかりの十八歳の二人から七十二歳のご婦人まで、総勢十八名で訪台し被災地を巡った。

それ以後去年(平成十五年)の三月まで、地域の人たちとボランティアが一緒になって、三度訪ねている。それも被災地ばかりで殆ど観光はない。去年は佐用町の生活改善グループの方々五名ともご一緒し、寝袋を持ち回って行動した。この時は、彰化縣永楽社区の廃物利用集会所で翁金珠縣長(県知事)と一緒に地元の方々の手料理の昼食をいただきながら、まちづくりを語り合った。

 これがご縁で、今年六月に縣長が御蔵に来られ、古民家集会所で鍋を囲み古民家談議になった。

 

● 修学旅行の受け入れ

 四、五年前より、修学旅行生を地元と「まち・コミ」で受け入れ始めた。生徒にとっても体験学習があった方が良いだろうと、面倒をかえりみず薪と大釜でご飯を炊き、大鍋でカレーや豚汁をつくる。生徒たちで水加減、味加減、火加減をし、野菜の皮むきから切る所まで任せる。出来るプロセスを楽しみ、地域の人たちと一緒になって食する。

野外学習は、現場の体験を通じて「見るから見つめる、そして見とおす」訓練になる。礼状も沢山いただく。「学校での震災学習とは違ったものが現場にありました。貴重な体験をありがとうございました」。現場で学ぶ大切さを会得し、他者の痛みを感じ、それに耐えながらも、想像する精神の強さを養ってもらえば、こんなうれしいことはない。

 また町歩きをすると、町の案内係のボランティアさん方の臨場感あふれる語りが、生徒たちの心を打つ。一方、ボランティアさんの方は、反応する生徒の姿が孫にだぶって見え、心の豊かさを取り戻すことさえあると言う。お互いにいい経験をし合っている。

 

● 古民家の移築

  御菅 ( みすが ) (御蔵通・菅原通)西地区は震災で八割方が焼けて、区画整理によって、新築の家と中層の市営住宅が二棟建っている。最はや昔の長屋の風情はかけらもない。

そこに、神戸市都市計画局から、用地は用意するから集会所を建てないかと打診があった。

他所の集会所を見学するうち、北区八多町の古民家移築のコミュニティーセンターを見て、一同が「こんなのがいい」となった。それぞれが昔の長屋や生れ育った田舎を回顧していた。

そこで、「まちづくり教祖」の宮西悠司先生のネットワークで物件を探して頂き、城崎郡香住町安木の明治十年代の建物に行き当たった。しかし、工務店の移設費用の見積は高かった。

だが「まち・コミ」には藤川幸宏一級建築士がいる。応援団に武田則明先生、野崎隆一先生、公団の田中貢さんも控えている。いっそ設計も施工も住民と「まち・コミ」でやろうと意気込んだ。

これまでの経験として、慰霊碑モニュメントを武田先生の図面のもと、掘削や割栗地業(根切り底―基礎底盤を敷くために土を掘削した一番深い部分―を突き固めた後に、割栗石―岩石を打ち割って作った小さい塊状の石材―の小径のほうを下にして敷きつめた上から砂利を撒いてさらに突き固める)やコンクリート打設まで自分たちでやった。北公園では花壇も作ったし、ワークショップで設計にまで加わり三百五十平方メートルの芝張りもしたし、焼け跡から出たレンガで舗装もした。南公園でも、焼け残った生き証人でもある楠の大木二本を原位置に整備残留させ、簡易トイレも使えるようにし、低木の植栽もした実績がある。

自分たちの手で作り出すのは、なにより面白い。「そんな面白いことを、お金を払って人にやってもらうなんて、もったいないやんか」となった。昔は村人が総出で普請を手伝った。そこに協同参画の意味があったのに、何時の間にか家を買うようになっている。住む人、使う人の意向は汲めていない。これではお金の有難味は分かっても、人の有難味が分からない。

果たして、やってみると、参加した住民、学生ボランティアの意気は高揚し、喜んで作業に従事している。棟梁や左官の親方も、教えを乞う若者たちに慕われて職人魂を呼び起こされ、心の充実を訴えた。住民と学生ボランティアを中心に、関係者が出来栄えを喜び合い達成感を分かち合った。

設計は専門家だけのものではない。施工も出来る所は自分たちでやればよい。出来ないと思っているだけだ。一人では無理だが何人か寄れば知恵は出るし、力も出る。出来ない所はネットワークに助けを求めればいい。目の前にある、出来ることから始めれば物事は前進する。

 ずっと以前にハナ肇さんの講演会で聞いた言葉に「心が変われば行動が変わる。行動が変われば環境が変わる。環境が変われば人格が変わる。人格が変われば自分の運命が変わる」とあった。

震災後、私の心が変わり、行動が変わり、環境が変わった所までは自覚できる。

あの地震が昼間だったら私の命はなかった。会社の中で机や椅子、書庫、金庫に挟まれて身動き出来ずに焼け死んだだろう。

人が生きていることはそれ自体が尊い。地震までは、命の尊厳とか生きていることに素直に感謝する気持ちを忘れ、人との優劣ばかり気にしていた。今の私は、数え切れない出会いとご縁のお陰で、支えられ生かされている命を実感している。これからも一日一日を充実して生きたいと思っている。

 

(注)筆者の手記は、第六巻にも掲載されています。