「まち・コミ」とわたし

「まち・コミュニケーション」スタッフ 戸田 真由美


   神戸市長田区御蔵(みくら)通五丁目に、私が所属するボランティアグループ「阪神・淡路大震災まち支援グループ まち・コミュニケーション(以下、まち・コミ)」がある。私がまち・コミのスタッフになったのは一九九八年九月。この六年間、まち・コミが発行している「月刊まち・コミ」の編集をメインに、写真展の開催や「御菅(みすが)カルタ」づくりなどをさせていただいた。

私にとって目前に控えた震災年という節目は通過点にすぎず、あまり重要ではないが、これを機にまち・コミスタッフとしての自分を振り返ってみたい。

● まち・コミュニケーションとは?

 神戸市長田区御蔵通五・六丁目地区は、阪神・淡路大震災で八割全焼という大きな被害を受け焼け野原となった。株式会社兵庫商会(五丁目)の田中保三社長が、全焼した自社の敷地内にコンテナを用意し被災地内外から駆けつけたボランティアの活動拠点を提供したことで、ボランティア村ができた。

 まち・コミの設立は一九九六年四月。震災直後、関東から駆けつけたボランティアの二人(小野幸一郎、浅野幸子)が支援活動を続けていく中で、一九九五年十月から御蔵通五・六丁目町づくり協議会の事務作業を手伝いはじめ、一九九六年一月には御菅地区合同慰霊法要の準備や連絡調整を行った。

ボランティアらは「まちに住民が戻ること」の必要性を感じ、継続したまちの支援をするため、まち・コミを立ち上げた。現在、代表も含めまち・コミスタッフのほとんどが入れ替わっているが、ハード・ソフト両面でのまちの支援を続けている。

 初代代表の小野幸一郎氏時代にまち・コミが行った大きな仕事は、共同再建住宅「みくら5(ファイブ)」の建設に、専門家と住民をつなぐパイプ役として関わったことだろう。この経緯は、まち・コミが発行した『共同建替事業の記録「共働」』に詳しい。

 現在の代表、宮定章氏になってからの大きな事業は、御蔵通五・六・七丁目の自治会館の建設のコーディネイトだ。住民と建築を学ぶ学生を中心としたボランティアが工事に関わって、日本海側の香住町にあった古民家を移築して自治会館を完成させた。

● 私がまち・コミスタッフになったわけ

 一九九八年八月、神戸新聞に「月刊まち・コミ」編集スタッフ募集の記事が載っていた。パソコンができなくても経験がなくてもいいから編集を手伝ってください、といったことが書いてあった。

私は一九九六年春に大学を卒業し、臨時職員として明石市市役所に勤めていた。仕事を始めて二ヵ月、少し気持ちの余裕が出てきた頃でもあり、仕事以外に何かやってもいいかなと思った。パソコンは入力がやっとできる程度。パソコンができなくてもいいということは、授業料を払わずにパソコンを教えてもらえるのではないかと思い、まち・コミを訪ねることにした。震災のことも、まちづくりのこともほとんど知らない素人が、まちづくりに関わるきっかけは、こんな自分に都合のいい考えからだった。

 当初は「月刊まち・コミ」の作業日に合わせ、仕事が終わった後や休みの日に行っていたが、私に編集やレイアウトの知識も技術もないことと、ほとんどの原稿を書いていた小野代表は締切を守ってくれないことが理由で、目的であった「月刊まち・コミ」の作業はほとんどやらず、パソコンの練習をし、夜になると小野代表やスタッフと飲みに行っていた。

ボランティアに来ているのにこんなことをしていていいのだろうかという後ろめたさがあったが、特に小野代表との対話は自分にとって貴重だった。

「お前はこういうところがダメなんだよ」と、無意識にやる行動や発言まで注意され、自分でどうしていいかわからなくなって涙したこともあるが、後にも先にも、私にはっきり注意してくれる存在は小野さんただ一人だ。

 私は、一九九八年九月に明石市役所を辞め、現在はフリーライターという肩書きを持ってまち・コミをうろうろしている。つまりフリーターだ。時間の自由がきくようになったので、まち・コミにいる時間がグンと長くなり、「月刊まち・コミ」以外の部分での活動の幅が広がった。

● 私がまち・コミで体験したこと

 二〇〇三年一月十七日に向けて「震災から八年、いま・むかし〜まちの写真展〜」(以下、写真展)を開催したり、同年八月からは、地域住民がつくる地域のカルタ「御菅カルタ」づくりを企画したり、その制作事務局を務めた。いずれの事業も、ほかのまち・コミスタッフの協力を得てやったことだが、私にとってかけがえの無い体験になった。

 震災によって起こった火災で大きな被害を受けた御蔵通・菅原通地区は、人や家や町並みを失い、震災前のことを思い出すために欠かせない写真も焼いてしまった。私は御蔵に関わって丸四年だったが、震災前の町並みのことはほとんど知らない。だから、今なお残っている写真を集めたいと思った。

実際集め始めてみると、火災を免れた人から提供があっただけでなく、孫の成人式の写真を祖父母に送っていたためその四枚だけが残っていたり、結婚して地域を離れた子どもが自分のアルバムを持っていたりして、多くの写真が集まった。それらの写真の背景には、震災前の地域の様子が収まっていた。

写真を集める作業とともに、私は地域の方の町や家族に対する思いを聞くことができた。私がまちづくりといわれる活動を体感できたのが、この写真展の活動だった。それと同時に、まちで暮らす人がまちのことを大切に思うことによって、まちが明るさを持つということを実感し、私もまちづくりの一端を担ってみたいという思いを持った。

 御菅カルタづくりは、地域のみなさんに少しずつ気楽に関わってもらって、一つのものを作り上げたいという思いで企画をした。どうやって作ったか、どんな苦労があったかなどは、住宅総合研究財団の『「住まい・まち学習」実践報告・論文集5』に詳しいので省略するが、わかったことだけはここで報告したい。

それは、誰でも自分が関わってできたもの、やったことに対して、思いを持つということ。そしてまちづくりの専門家でなく、専門の勉強もしてこなかった私でも、まちづくりに関わることができるということ。まちづくりの専門家は建築出身の人が多いが、文学部出身の私(私は文学のこともよくわからないが)でも少しは役に立つようだ。

● 私にとって「記録する」こと

 私は、記録をするということに興味がある。私が企画を考えるとき、記憶を何らかの形で残しておきたいという思いが強い。自分の忘れることの早さからだと思う。幼稚園の頃の記憶は、送迎バスのおっちゃんが藤田さんだったことと、友達の一人の名前を覚えているぐらいで、担任の先生の名前とか、自分がどんな遊びが好きだったかとか、よくわからなくなっている。文字や写真、映像、音声など、なんらかの形で残さないと忘れてしまう。

 「月刊まち・コミ」は一九九七年七月からほぼ毎月発行。まち・コミの活動を支援してくださっている人やまちづくりに興味を持っておられる人などに、まち・コミや御蔵の活動を報告するとともに、まちづくりの情報をお伝えしている。

サイズはA4で、ページ数は多いときで十二ぺージある。

最近立て続けに、図書館から送付の依頼を受けた。私が関わっているのは一九九八年月号からだが、発行が遅れたり、二ヵ月分の合併号を出したりしながらも、なんとか今まで継続してきたことで、図書館に並ぶ「資料」として扱われることをうれしく思うと同時に、プレッシャーを感じている。

「月刊まち・コミ」には、原稿の執筆、誌面レイアウト、郵送のための名簿入力、誌面印刷、封筒印刷、発送作業など多くの仕事があり、毎月大勢の人の手により行われている。どの作業が欠けても「月刊まち・コミ」は発行できない。発行に関わっているメンバーに感謝したい。

● 私にとって「まち・コミスタッフ」であること

 まち・コミスタッフになって丸六年。多くの人や事柄と出会うために活動を続けている。ボランティアという肩書きは、本当にありがたい。多くの出会いを手伝ってくれる。

 なぜまち・コミを続けているのか聞かれることがある。正直返事に困っている。その都度違う返事をしているような気もする。好きな食べ物がなぜ、どういう風に好きなのか、言葉で説明するのがむずかしいのと同じ感覚だ。だからきっと、私はまち・コミのことが好きなんだろうと思う。まち・コミのことが嫌になるまでは活動を続けたい。