身辺復興史

高島 節子 七十一歳  西区  


  私の行っている板宿駅近くの教会も、震災で半壊になりました。一年のうちに修理しましたが、何年か後には新築しなければなりません。

教会の被災者のうち、七年ほどのうちにO家は元の家の近くの人々と共に、元の場所の近くに共同家屋を建てました。O家は西市民病院の近くで、震災の火事で着の身着のままになりました。

Hさんのご主人は家の下敷きになり、即死。Hさんも元の場所に新しい家を建てました。他の家族も家屋が崩壊して、七年ほどしてようやく再建した人々があります。FさんとYさんとEさんはそれぞれ仮設住宅などを経て今は市営、県営住宅に安住しております。神戸を離れたきりになっている人々も何人かいます。

長田区 二葉小学校の北の角を曲がって東に少し歩くと、新しい立派なビルが南北に大通りをはさんで建っています。その二つのビルの二階、三階の渡り廊下が大通りを横切っています。このような粋な建物は庶民的な長田では、震災前ではめったに見当たらなかったでしょう。

JR 新長田駅 を南に行った新長田一番街の商店街は、震災前は庶民のにぎやかな人波でごった返していました。両側のお店はいわゆる下町風情といったところでした。ここが震災の、特に火事のひどい所でした。

この新長田一番街も、最近はすっかり再建されて模様替えをして、きれいな商店街に生まれ変わりました。でも新しい店には、以前のあの活気がありません。以前のごった返していた人波がありません。商店街の道幅も広くなったようですが、人影はまばらです。

お店は売れているのでしょうか。今は 長田区 内のあちこちに、新しい粋なノッポビルを見られるようになりました。でも、長田の住人は以前よりずっと少ないです。特に重要なことは、以前あったケミカルシューズの工場が沢山姿を消したことです。このシューズの工場は震災で大打撃を受けました。

商店街近くの二葉小学校も長楽小学校も、震災後百六十人の生徒数で頭打ちです。また人々は、池田小学校や 長田区 横の板宿小学校の生徒達が、震災後ぐんと少なくなったと嘆いております。千歳小学校と大黒小学校は合併して「だいち小学校」になりました。生徒数は六〇〇人以上とか。他からも来ているようです。

それでは震災後、 長田区 あたりのあの大勢の子供たちや家族はどちらに移り住んだのでしょう。大勢の人達が仮設住宅から市営や県営住宅や他に落ち着かれたようです。

私があちこちの小学校の子供たちにトラクト(小冊子)配りをしていて気づくことは、大勢の人々が神戸の両側と山の方に移ってゆかれたようです。特に目立つのは、JR 大久保駅 の南側に新しいジャンボのレジャー施設や商店街が出来たことです。

大久保南小学校が震災後五年ほどして建てられました。生徒数は六〇〇人以上。更に西の国道250号線近くに二見西小学校も新築され、六五〇人以上の生徒数とか。

また、JR 土山駅 も二階建の新築に生まれ変わり、土山駅近くの町立蓮池小学校の周りにも住宅が次々に建てられ、生徒数も以前より増えております。二見北小学校の生徒数も増えております。地下鉄沿線の近くの小学校の生徒数も増えていると思います。特に名谷駅から西神中央にかけての近くの小学校の生徒数は増えていると思います。

私が耳にして考えさせられたことは、一九二三年の関東大震災のときのことです。そのときの被災者は政府から今回のような支援はなかったようです。阪神大震災の被災者は、政府からもボランティア団体からも至れり尽くせりの支援が与えられたように思います。

私は月見山駅の南の 須磨区 南町で被災しました。私の元の住居の長屋の大家さんの借家は崩壊後、他の人のパーキングになっています。大家さんは貸し家を再建する力がなく、不動産業者に土地を売られたようです。私の行っていた銭湯も今はパーキングになっています。何軒かの銭湯が震災後姿を消しました。

私も一年間岩岡の仮設にお世話になりました。岩岡では交通の便が悪く、自転車に乗らなければなりませんでした。五十年間も自転車に乗らなかった私には、それは酷な、酷なことでした。

私は平成九年八月からここ、玉津曙の県営住宅に落ち着きました。被災者は月四五〇〇円の家賃にしてくださいます。昨年から、無料乗車券で週に一回ほど山歩きをして、健康維持に努めています。

 

(注)筆者の手記は、第三、四、五、六、八巻にも掲載されています。