第三の人生

綱 哲男 七十七歳 貿易商  中央区


   「おとうさん…」次の言葉が出ない。

娘婿が芦屋から歩いてやってきて、私たちをやっと見つけた。地震の日の翌朝である。

彼は地震当日の早朝も、安否を気づかって私たちを探しにきてくれたが、家の玄関が両隣に塞がれていて中に入れず、所在が分からなかった。

それで自宅前の本山第三小学校(東灘区)へ探しにいったが見つからず、避難者名簿にも見当たらなかった。やむをえず遺体安置所まで確かめたという。やっと見つけ、ホッとした顔でお互いを見合った。彼は更に足をのばして、 灘区 に住む実母を探しに出かけて行った。

それにしてもあの朝、寝床を飛び出して以来、我が家には再び戻っていない。地震の暴力で強制退去させられたようなものだ、不自然で後味も悪い。その半面、家の中で震度7のタテとヨコの揺れに見舞われた事は、地震学者でなくても得難い経験だった。それも夫婦同じ場所で共通の恐怖感を味わい、無我夢中で手を取り合って命がけの脱出行ができた。

震災一年後に「私の地震断想」と題した小冊子をまとめた。巻末にその瞬間の判断を「綱流地震一分勝負」(震度5・強震以上のとき)と題して書いてみた。十年たった今も、少し手を加えただけで結構役に立つと思って、自分なりに日常の心の備えとしている。

@ 地震と気付いた時は半分助かっている。落着いて。家屋倒壊の場合、圧死から身を守る。梁・柱・家具の下敷きになっていないか。人間は反射的に身を守れる。

A 自分の居場所は。一階か二階か勤務先か? 家族、同僚は。貴重品持ち出しは?(寝室には家具を置かない。置いても一米の高さまで、固定すること)。

B 手早く身支度をする。素足(すあし)の時は履物をはく、なければ厚手のソックスを(ガラス、土壁が散乱している)。脱出は玄関にこだわらない、火元確認。

戸や窓のガラスを無理に割らない、開かなかった時だけにする(散乱防止)。

C 家族と声をかけ合う、冷静に行動する。自分だけ先に逃げたりしない 家屋倒壊の危険がなければ慌てない、次の余震までに家の傾きの反対側へ脱出する。

D 常備品 脱出用スニーカー、懐中電灯(停電、昼でも屋内は暗い)、ラジオ、座布団、毛布、タオル、軍手、マスク、ペットボトル入り飲料水(生活用品)。

E 脱出は身軽で、肌を出さない、頭と足を守る。足の怪我は避難生活を困難にする。

大人は二〜三日食べなくても死なぬ。命あっての物だねです。

これは一分間の咄嗟の判断材料です。一分後のことは、それぞれ防災減災に関する資料や新聞テレビ報道を参考に。「武士のたしなみ」です。

今年九月、 大阪市 立美術館で「祈りの道」吉野・熊野・高野の名宝展を拝観した。この地域の寺社が所有する名宝が展示・紹介されていた。

私は会場をまわりながら特に奈良・平安・鎌倉時代の仏像に興味を持った。それは千年近くそれぞれの古刹のご本尊として人々の信仰と崇拝を集めてきたものだ。私たちの先祖もこれらの仏像にずっと畏敬の念をもって接してきたであろう。

しかし歴史の資料によると、数度の巨大南海地震が紀伊山地を襲っている。白鳳・仁和・康和・正平・慶長・宝永・安政・そして昭和と八つの南海地震のどれかに遭遇している筈だ。

数多くの仏像を拝観しながらこんな事を考えたのは、震災十年が近づいたせいかも知れない。もともと拝観の主な目的は門外不出の奈良・金峯山寺の「木造蔵王権現立像」鎌倉末期の作で重要文化財、高さ四・五メートルの、怒髪天をつく憤怒の形相の巨像を見たいためであった。

風変わりな拝観の仕方をしたものだ。仏像と向い合っていると、幾多の地震をくぐり抜けてきたという永い時間に、何となく親近感を抱いた。昔の地震の体験談など語りかけて欲しい気がした。

震度7の洗礼を受けたことは私の人生観そのものを変えてしまった。生きているのではなく、生かされていたのだ。震災以後を第二の人生と位置づけていた。新しい生活、思いもよらぬ体験、違和感、それらを毎年記録することができた。

この十年ぼんやりと過ごせなかった。何かがここから始まったようだ。震災十周年を機に、ここまでを第二の人生として終結させよう。その時間は十年と短くとも、天変地異の後遺症を乗り越えて、第三の人生をスタートさせよう。

「阪神大震災を記録しつづける会」に投稿し、体験を書き、読み、そして話したことが積み重なって、第三の人生への扉を開いてくれた。生きている限り続く貴重な余白として、大事に使っていきたい。好きなことをできるだけやってみたいと願っている。

平成十七年に、私たちは結婚五十年目を迎える。終戦六十周年も近い。第三の人生を始める意義深い年になりそうだ。

 

(注)筆者の手記は、第二〜九巻にも掲載されています。