「神戸の壁」保存運動  

三原 泰治 現代美術作家  垂水区


   地震で私の自宅は半壊し、家族を避難させて私一人が、水・ガスの出ない寒い部屋に寝起きしていた。絵画制作にも手がつかない日が続いた。

激震の被災地 長田区 では、「地震が悪い」という声をよく耳にした。私は「この一言で終わらせてはならない」と強く感じ、地震に対する人類文明の弱さを謙虚に受け止めて、世界中の人々に震災から得た教訓を伝えることこそ、震災を体験した者の使命であると思った。

 「このままではだめだ」と、未来に結びつく行動を模索した。そして、地震の二十日前に発表した個展のテーマ「人類と樹木との共存」を思い出し、「樹木の目線」で被災地を見て回ることにした。

 被災地では、樹木が延焼を食い止め、建物が倒壊し焼け尽きても、樹木だけは黒焦げになっても堂々と立っていた。樹木の生命力の偉大さに涙が出た。この悲惨な出来事を決して忘れず、世界の人々に、震災から得た教訓を伝えることが重要であることを再確認した。

 震災ヵ月後、息子・一真と「リメンバー神戸プロジェクト」活動構想をまとめた。活動目標を「樹木ある豊かな復興」「震災を決して忘れないため、震災の生き証人となる被災物の保存」とした。

 早速、兵庫県と 神戸市 にこの活動の趣旨を伝え、協力要請をしたが、「今はそれどころではない」と理解が得られなかった。

 日々、震災の傷跡の被災物が撤去されていく。わが身を削られていく思いがした。震災四十日後に、延焼を止めた樹木のある 長田区 鷹取の大国公園で、被災物の保存を市民に訴える「リメンバー神戸プロジェクト発足集会」を催した。

 この周辺の瓦礫の撤去が始まっていた。今この機会を逃すと震災の痕跡は消えうせる。急遽、メンバーの山崎英樹氏にクレーン車を提供していただき、自動車、自転車、焼け焦げた樹木などを運び出した。一方、「保存の具体的方策」をまとめて県と市に緊急提案したが、「準備組織ができていない」と保留となった。

 保存活動を続ける中で、 長田区 若松町 三丁目の新長田公園で樹林を見ていたとき、瓦礫の中に満身創痍で堂々と建っている一片の壁を発見した。「残してくれ」と訴えかけているように見えた。

 私はその姿に悲壮な美しささえ覚えた。早速、「神戸の壁」と命名し保存活動を開始した。そしてこの壁に足を運んでいるうちに、昭和二年頃に若松市場の防火壁として建てられたもので、第二次世界大戦時の神戸大空襲とこのたびの震災にも耐え残ったことを知った。この壁こそ、われわれが求めていた「震災の語り部」としてふさわしいと思った。

 所有者を探したところ、山下都子さんと分かった。壁の解体日が、二、三日後に迫っていた。解体延期をお願いし、壁は危機一髪で残った。

 一九九五年十一月に「神戸の壁保存委員会」の発足会を壁の前で催し、活動を支援する人々が大勢参加した。フィナーレでは、参加者全員が手をつなぎ、壁を囲んで「神戸の壁」の永久保存を訴えた。

 保存活動を積み重ねているうちに、活動は徐々に市民権を得て、マスコミにも取り上げられるようになった。

 十二月に三宮では、「ルミナリエ」が華やかな光をともされて脚光を浴びたが、 若松町 の現場は暗く、更地に「神戸の壁」がぽつんと立つのみであった。そこで、「ルミナリエ」の終了日から、壁をライトアップすることにした。

壁の前に人が立つと、その影が十字架のように見える光景は、震災の象徴となった。

一九九六年一月十七日には、地元の人々が追悼の集いに参加し、「鎮魂と復興」を願った。そしてこの後毎年、震災記念日の十日前から灯し、当日に備えることにした。

しかし、一九九六年三月末には延期されていた公費解体期限が近づいてきた。 神戸市 に対し、壁の存廃が決まるまで再延期を要請したが認められなかった。

 山下家の所有物である「神戸の壁」の存廃は、一家の意思に頼るしかない。山下家は公費解体の申請を取り下げた。それどころか、壁を保存していくうえでの安全にも配慮され、傷害保険にも加入されるなど、ご両親が壁の前で亡くなったにもかかわらず、積極的に保存活動をご支援くださったのである。この勇気ある行動で、壁は残った。

 「神戸の壁」前の広場は、市民の集いやアーチストの発表の舞台として活用されるなど、交流の場となった。また、震災の生き証人として、防災、社会・文化活動の要の場所となった。

 「神戸の壁」の周辺は、市街地再開発地域に指定されていた。その第一期工事計画が、一九九八年一月に決定された。そこで 神戸市 に対して、再度「現在の場所にて保存」、「震災記念公園などに移転保存」、「他の市・町への移譲」のいずれかを行政事業として取り上げるように要請した。しかし残念ながら、この時点になっても行政には保存の意志がなく、また、地元のまちづくり協議会も保存の意向が固まらなかった。

 そのとき、かねてより移譲受け入れ先として働きかけていた、淡路島の津名町の柏木和三郎町長から、受諾の返事をいただいた。ここに山下家のご了解を得て、津名町への移設を決定することとなったのである。

 われわれは、現状地での保存を切望していたので、まさに「わが子を嫁がせる」ようなさびしさがあったが、「神戸の壁」が神戸唯一の大型震災の生き証人として地上に残り、永久保存されることで、最低限度の目標を達成したものと思っている。

 津名町への移設のため、「神戸の壁」は十三のブロックに分割した。前例のない大工事だった。しかし、そのおかげで、神戸にも何か残したいとの願いがかない、地元「久二塚地区震災復興まちづくり協議会」の支援を受け、私が基礎のコンクリートを掘り出して「神戸の壁ベンチ」を制作した。

 「神戸の壁ベンチ」は、「アスタくにづか」一・二番館の地下に三基を、県関係者の支援で「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」の屋外に1基を設置した。また、壁の跡地では震災復興記念碑「明日へわがまち」の台座として使用された。

 「神戸の壁」保存運動は、風化していく震災の記憶を、形あるもので残すという趣旨から生まれた。そこで、壁そのものはもちろん、活動の成果と活動に携わった人々の思いも形で残そうとした。

形ある物で伝える 「神戸の壁」の保存(四ヵ所)

形ある本で伝える 「神戸の壁保存活動記録集」(全3巻)の出版

歌で伝える    「神戸の壁の歌」全12曲収録CDの制作

絵図で伝える   「神戸の壁」の絵図(百点)を制作し展示

 活動がこのような形で実を結んだのは、住民と有志の熱意と山下家の勇気ある決断のおかげだ。また受け入れ側の、津名町民はじめ文化的感性豊かな柏木和三郎町長、移転費用の三千五百万円を拠出された津名町高島芸術文化基金(代表 高島玲子氏)のご尽力の賜物でもある。

 「神戸の壁」 が津名町 へ移設されてから周年、震災から周年にあたって、活動の経緯を要約して述べた。

 震災から十年、震災を体験した一人として、これまでは主に「震災体験を具体的に形あるもので伝承する」活動に携わってきたが、これからは「震災から得た教訓を基に、防災・減災の備えを確立する」責務を感じ、推進しようとしている。

 被災地の現状は、ソフト的(精神的)な復旧・復興のための支援は進んでいるが、静岡県などの取り組みに比べると、ハード的な防災・減災に関する備えが遅れている。十年の節目は、「死者、ケガ人を減らすための方策」を強力に推進する元年でもある。