ボランティアから専門職へ  

清重 智子  三十九歳 介護士   明石市


   私が仮設住宅の訪問ボランティア「週末ボランティア」で活動したのは、平成七年の十二月末から平成十一年の十月ごろまでだった。今もその四年間のボランティア活動の記録として、二冊のノートに私が訪問した記録が手元に残っている。

ノートをめくって一つ一つの記録を読むと、訪問した仮設住宅、部屋の場所、そのときの様子が昨日のように思い出されてくる。仮設住宅での暮らしぶりを見て、話を聞き、そしてあの震災がなければ、震災前と変わらずに暮らしていたはずの多くの方々の苦労と辛さを思ったとき、私は大災害に対して本当に何もできず、話を聞くことしかできない無力感を感じていた。

それでもボランティアを待ってくれていた多くの方々が「話を聞いてくれてありがとう」と言って笑顔を見せたとき、やっぱり訪問し続けてよかったと感じた。訪問しないよりは訪問して現状を知ることが、私自身にとって大切なことに思われた。

仮設住宅から公営住宅(復興住宅)へ移っても活動を続ける重要さは分かっていた……。しかし、私の中では仮設住宅がなくなるまでという一つの思いがあった。

平成十一年、仮設住宅がなくなりつつあるとき、私自身の事情でボランティア活動を続けることができなくなったのが、一つの区切りであった。仮設住宅がなくなるまでボランティア活動を続けることに区切りをつけた。

平成十二年から平成十五年までは自分の生活に追われていた。

平成十五年の夏、ボランティア活動を一緒にしていた友人が病気で突然亡くなった。久しぶりにボランティアの友人達と会う機会があった。そして、平成十六年一月末、私達のボランティア活動を応援し続けていた被災者の方が亡くなった。

この二人の死が私にあることを問いかけていた。仮設住宅の訪問ボランティアという活動は私にとってどういう意味があったのか。二人の死からそれを尋ねられたような気がした。久しぶりに会ったボランティアの友人達と一緒にボランティア活動をしたことや、その活動を支えてくださった出来事を思い出し、ふり返った。

震災から十年を前に、この活動が自分自身にとってどういう意味のあることであったのか。それは一言で書くことのできない体験だった。

大災害に遭った方に対して何ができたのか、ただ話を聞くことだけのボランティアだったが、今まで見えなかった社会、特に高齢者や障害者の問題、低所得の人達、生活保護、病気や家族の問題など、この神戸という町の中で一人一人が懸命に生きてきたその一つ一つの小さな問題が、大地震によって問題が大きくなり、その人らしく生きてきた生活が目茶苦茶になってしまった。

その事実を知った時、私はただ話を聞いて情報を発信して、それだけでよかったのだろうかと行き詰ってしまったのだ。何か他にこの大変な人達の生活を助けることはできないだろうかと思い始めていた。

ボランティア活動をしていたころは、ただ話を聞くだけで、それに対しての助言すらできないことが多かったのだ。知識や専門的なことに関しては分からないことが多かった。

やはり、専門的な知識が必要ではないかと思った。そして、そう感じていたのは私だけではなかったのだ。仮設訪問を一緒にしていた友人達も実は同じことを考えていたのだ。

久しぶりに会った友人達の中には、専門職についていた人がいた。専門職、つまり介護職員やホームヘルパーという福祉に関する知識をもった専門職だった。そして私自身もその勉強を始めた時、亡くなったボランティアの友人も同じことを考えていたことを知ったのだ。

これは偶然とは思えなかった。地震が起きてボランティア活動に参加しようとした人は、一人ひとりバラバラに来て同じ思いで活動をした。数年たちボランティアから専門職につこうと思っていた気持ちも、みな一人ひとりが思って勉強していたのだ。

これが震災から自分達へのメッセージじゃないかと思った。人は一人では生きていけない。お互いに支え合って生きていく。そして、自分らしく生きていくことを尊重する社会を作っていく。

あの大震災がなかったら、きっと何も知らずに生きていた。でも大震災があったからこそ、見えないことが見えた。人として生きる意味を教えられた気がした。まだまだこれからが勉強だと思った。

生きたいと思っていた人達の分まで、私達は生きていきたいし、生きている者同士支え合っていきたい。震災後、まだまだ生活に苦しんでいる人達も大勢いる。そして、この大震災のことを知らない人達に震災のことを伝えていかなければならないと思った。

震災はまだ終わっていない。

まだ揺れ続けている。

 

(注)筆者の手記は、第四、五巻にも掲載されています。