「孫」ができた  

西田 公夫 八十歳  神戸市北区


「おじいちゃん、おばあちゃん、お元気ですか」、受話器から明るく弾んだ孫娘の声が聞こえてきました。と、こう書くと、私達のことをよく知っている人は「子供もいないのになぜ孫が」と不審に思われるでしょう。

しかし、いるんです。孫だけでなく、曾孫までも。

未曾有といわれた激震に、家は倒壊、私達は身一つで救出され、その日から避難所暮らしを余儀なくされました。

やがて仮設住宅の建設が始まりました。高齢者優先の言葉を信じて数度応募しましたが、あえなく落選。あまつさえ体調を崩したので、やむなく妻の弟夫婦が住む 名古屋市 の近郊に移りました。

幸いその町の県営住宅に入ることができ、生活に落ち着きが戻ったかに見えましたが、不透明な先行きに内心は不安が一杯でした。

被災地の行政は、当初数十万人といわれた県外避難者の実態調査を行おうとしないばかりか、私達の問い合わせに「県外へ出られた人は恵まれている」、「勝手に出て行った人の面倒までは、見られへん」とのつれない返答。

行政に見捨てられたとの思いは募るばかりでした。

情報不足の中で先行きを模索しながら一年経った早春のある日、被災地を支援するボランティアの会の人と知り合い、その人の勧めでその会に入り「震災の語り部」となりました。会の活動の中心は若い人達で、特に高校、大学の学生の姿が多く見られました。

彼らの自信に満ちた活発な言動は、沈みがちだった私の心に、若さと勇気を与えてくれました。

「語り部」として招かれた会合に出ましたが、すでに目と耳が不自由だった私は質疑応答となると困りました。それを知ったボランティアの女子大生が目となり耳となってくれたので、大いに助かりました。

紆余曲折もありましたが、多くの人の温かい支援を得て、県外避難者の会を立ち上げることができました。そのときも世話人の私をサポートするために、一人の女子大生が専属についてくれました。このように陰に陽に援助してくれた彼女たちのおかげで、私は任務を全うすることができました。しかし、私の方から彼女たちのためになることをしてあげたという記憶はありません。

この彼女たちが後に私達の孫になると宣言してくれたのです。

愛知県へ転居して二年目の春、義弟が勧めてくれたシルバーカレッジに合格し通い始めました。ここでは被災者としてではなく、普通の人として学友達と交流することができ、本当に心のケアになりました。親しくしていただいた人とは卒業後も交流を続け、神戸へ帰った現在も二、三の人と文通しています。

カレッジを卒業後は国の放送大学の愛知教室(中京大構内)に通い、一年間歴史考古学を受講しました。知識を吸収したいというよりも、絶えず何かを考え多くの人と交わって胸中の不安を消してしまいたい、との思いが強かったのですが、彼女たちには、震災に遭いながら常に明るく勉学に励む年寄りに見えたのでしょう。

また、避難者の会の代表となってからは、多くの新聞社、テレビ局の取材を受けるようになりました。なぜ私ばかりがメディアの人達に取材されたか、今もって疑問に思っていますが、テレビや新聞で私のことを見た彼女たちの目には、私が特異な存在に映ったのでしょうか。

公営住宅の第三次一元募集で市住に当選し、神戸へ帰ることになった前日、荷造りに女子大生が三人来てくれました。翌日には予想もしなかった男女十六人が押しかけ、手渡しで荷物をトラックに積み込み、近所の人を驚かせました。

それだけではありません。神戸に帰っても、私達老夫婦二人だけでは荷解きに困るだろうと、九人がワゴン車等に分乗して新居まで来てくれました。

三年半も経つと、ボランティアで活躍するメンバーも変わりました。社会人あり学生ありで、その中の七人が孫になる約束をしてくれたのです。

四年前、私が誤嚥性肺炎で入院した時、学生だった三人が急遽見舞いに来てくれたり、ルミナリエを見に連れて行くためだけに、わざわざ来てくれたりしました。

今は皆が卒業しそれぞれ福祉施設等で働き、その中の三人が結婚し、可愛い子供に恵まれました。曾孫です。

震災で家や家財などを失いましたが、今では孫という素晴らしい宝物に恵まれています。

「休暇が取れたから泊まりに行きます」

受話器から孫娘の嬉しそうな声が聞こえてきます。

私達の心の若さの秘訣は、孫の存在です。

 

(注)筆者の手記は、第三、四、五巻にも掲載されています。