小さな決心

枇榔 妙子 四十三歳 ケアマネージャー  芦屋市


地震で家の中はぐちゃぐちゃになったけど、大したけがもなく、大きな損害もありませんでした。

だけど不況から、収入は減り生活は苦しくなりました。小学生二人をかかえてアルバイトを始めましたが、長い夏休みなど、子供だけで留守番させなければならず、折しも神戸の連続殺傷事件などもあり、不安になり長続きしませんでした。

また夫の母がパーキンソン病や、不安神経症に、その後すぐ同居の義弟もうつ病になりました。今から思えば、二人とも震災のストレスからの発症だったのではないかと思います。

義母は「壊れた町を見るのがいや」と家に閉じこもりがちになりました。義弟は出社出来なくなり、夫の介助で一年以上通院治療を受けましたが、良くならず、躁状態に転じた時、社内でトラブルを起こし退社。その後も体調が悪く入退院を繰り返し、今も自宅で療養する日々です。

まだ子育てで手一杯だった私にとって「介助」なんてずっと先の話だと思っていましたが、早朝に頻繁にかかる「今から線路に飛び込む」などという電話に振り回されるうち、少しでも勉強しておかなければとヘルパー講座を受講しました。

ノーマライゼーションという考え方があります。「誰もがその人をありのままで受け入れられるべき尊厳をもつ存在である」という理念に、自分自身も肯定され、励まされました。

また介護保健も始まり、制度も整備され、介護の環境は驚くほど改善されたと感じます。

そして登録ヘルパーという働き方も自分の生活に合っているように感じ、仕事をするようになりました。

女性をもっと社会にと、「二十世紀職業財団」という団体が、女性の再就職のために様々な講座を開催したり、啓発の事業を行ったりしています。そこにも登録し、その活動にも興味を持ちました。

複合的な困難が折り重なっている被災地には、二重ローンなどで家計が苦しく、それでも育児や介護などで思うように働けない女性が大勢いると感じていました。

また、被災地でのストレスフルな生活は弱い者にしわ寄せがいっているのでは、との思いもありました。

登録ヘルパーの仕事と並行して、保育サポーター養成講座も受講しました。その後、女性センターの後押しもあって、有志が集まり平成十一年六月、「芦屋保育サポートセンター」の設立にも携わりました。

保育サポーターが、会員制で、安いながらも有償で短時間子供を預かるというシステムは、仕事を持つ親だけでなく、専業主婦やパートなど短時間働く親にも広く支持されました。

事務局の運営などはすべてボランティア、持ち出しの活動でしたが、反響は大きく、県や市の広報でも紹介され、会員数も活動実績もどんどん増えました。

最初「子育ては母親の仕事」と相手にしなかった 芦屋市 も、「子育て支援は地域社会全体で」という風潮に目を向けて、この活動を認めてくれるようになりました。

三年間事務局を勤めましたが、 芦屋市 が平成十五年に「ファミリーサポートセンター」設立を決定した後、後任に事務局を引き継ぎました。

事務局をしながら、登録ヘルパーとして仕事をする中、より良い介護技術を身に付けたいと介護福祉士の資格を取り、昨年にはケアマネージャーの試験にも挑戦、今年はなんとかこの芦屋で再就職も果たしました。

自分一人では無力だけれど、なにか出来る事があるのではないか? この地域の誰もが、震災を経験したからこそ、それを無駄にせず出来る事を見つけようと、一生懸命考え関わろうとしていると感じます。

愛する人を亡くした人、苦しい思いをしている人に、たとえ遠回りでもなにかを届ける事が出来たなら、との思いで日々この町を駆け回っています。

 

(注)筆者の手記は、第二〜五巻にも掲載されています。