義母が空けてくれた隙間

岡村 保雄 八十七歳 兵庫県川辺郡


ドカン。ユラユラッ。

「これは大きいぞ」。

宝塚市星の荘 にあった自宅で早朝のラジオ講座を聞いている時、阪神淡路大地震が襲った。

「子供の頃東京で体験した関東大震災より大きいぞ。家がつぶれる。これは死ぬ」と覚悟したものの、何故かそのまま仰向けに寝た。逃げる気が全く起こらなかった。今でもそのときの心境は分からない。

身体の上に重いものがのしかかった。「あっ家がつぶれた。死んだ」と一瞬思った。何秒が経ったか。ふと、ものを考えていることに気が付き、「生きている。なら逃げ出そう」と、もがいているうちに少しずつ身体が動き、ようやく這い出した。

足元にぶつかるものを踏み越えながら、階段に置いてある懐中電灯を手にした。あわてているので電池が入らず落としてしまい、暗がりで分からずじまい。

二階の家内を呼ぶ。階段は外れ、両側から壁板が塞いでいるらしかったが、何とか降りて来た。

スリッパを履き手探りで玄関に向かう。戸が斜めにへしゃがって開かない。裏に回り、幸い雨戸が飛んでいるのでガラス戸を蹴破って外に出た。

明るくなってから見ると、重いタンスが寝ていた場所に倒れている。義母の形見の小箱がタンスの端をわずかに支えていて、頭の空間だけが空いていた。

家中を記念のため写真を撮り、助けられた空隙部は特に何枚も撮った。東京から駆けつけた甥や姪達にもその隙間を撮っておくようにと頼んだが、いずれも不思議に写っていなかった。奇跡の証しにと思ったのに一枚も写真が残っていない。きっと義母が忘れよと、そうさせたに違いない。

家は柱が折れ、一階が傾き、その上に二階がのっている。余震のたびに少しずつ傾きが大きくなる。しかし、つぶれそうでなかなかつぶれない。日本建築の枡組みの強さをまざまざと見せつけられた気がする。

何か少しでも取り出したいと思っても、余震が恐くて何もできない。ボランティア十五名が手助けに来て、使えそうなものを出してくれたが、結局使いものにならず、市で処分してもらった。

小学校の体育館での避難生活三ヵ月。すき間風が入る入口付近に寝ているので、寒いことはなはだしい。約四百名がぎっしりと詰め合っての生活だった。

自治会を作り、皆が本当に心を一つにして助け合い、老幼をいたわって、非常に和やかに時を過ごすことができた。

三月下旬、やっと仮設住宅に当選。家解体後、何とか家を建て直そうと設計図を作り気を紛らわす。しかし、金を貸してくれるところはなく、借りても返す当てがない。あれやこれやするうちにノイローゼ気味になり、夜は眠れず。食欲もなし。

悩み続けているとき税務に詳しい人が「土地を半分売ったら家が建てられるよ」とアドバイスしてくれた。永年住み慣れた土地に未練はある。だが活断層上では何とも恐ろしい。また、半分になった土地では惨さが気になる。思い切って全部処分して他へ移る決心をした。

地震の専門書を調べたところ、活断層から五キロ離れたら安全らしく、それを目当てに探し回った。

たまたま群発地震が続いた地域の研究報告を知った。マグマでの地下水大爆発による群発地震が全部終わり、今から数十年は起こらないとのこと。あっても震度一から二くらい。七十キロの厚さの岩盤から成るカルデラ地帯なので、震度五以上はないらしい。

ちょうど知り合いの人が営業部長で開発に当たっている住宅地があり、強く勧められたのでお世話になることにした。環境がとても良く、新興の町で見知らぬ土地であったが、本当に良い所に移って来たものと喜んでいる。

ついの棲家を得て、心身共に快復し、余生を充実すべく、生涯学習に取り組んでいる。

考古学講座を二年で修了。リポートはA4用紙九十二頁、約十万字のものを作成した。また、先端技術講座は二年で修了。リポートはA4用紙四百五十九頁、約四十五万字となった。 目下次期課題を模索中というところである。

災害はいつ起こるか分からない。訓練は日中の明るい時に行われているが、真っ暗闇の中の被害、何がどうなっているかさっぱり分からないのが本当である。先ず足の保護。次は灯り。電池のない懐中電灯を手に持っても役に立たない。家が傾いたら、戸が開かないのは当たり前。早く外に出た近隣の人が心配して私達を呼んでくれる。

「生きています。でも外に出られません」なんて情けない返事をしているのが実情。

二階の物はほとんど無事だったらしいが、その時は命が助かったので、外に何の欲もない。解体で家もろとも瓦礫の仲間入り。今では惜しかったと思ってももう遅い。後の祭りとはよくいったもの。

奇跡の生還があったからこそ、今年は町で米寿のお祝をしてもらうことができた。

神仏に心から感謝している。