許せないこと

匿名(男性) 五十歳 小学校教諭 西宮市


震災後の体験の中で許せないことがある。

たくさんのイベントがあった。どれも被災者を励まそうという趣旨で行われたもので、心も体も疲れきった私たち被災者にはとてもありがたく、できるだけ参加を試みた。

それぞれが疲れきり、何の希望も持てない経済状況の中での温泉地への無料招待は、私の家族にとって本当にありがたかった。特に一ヵ月以上も風呂に入らずに、被災者の救済活動に携わってきた私にとっては夢のような誘いであり、家族にとってもそれは同じ思いであった。

和歌山方面の温泉協会が主催する、一泊二日のバスツアーに参加した。当日集合場所でバスに乗り込み、期待に胸をふくらませて、心から安らいでいた。

そこに十名あまりのグループが乗り込んできたのである。彼らは、やがて酒を飲みだし、大声で会話をし始めた。その内容から、全員が勤務していた鉄工所が地震でつぶれたということがわかった。

バスに乗った四十名全員が被災者だった。共につらい体験をしたという思いから、その大声にも黙っていた。ところがそのグループは周囲にからみ始めたのである。しかも、とても卑猥な言葉を投げかけ始めた。

私の妻や娘に対しても同様である。妻や娘は当然嫌がり、できるだけ無視するように努めていた。しかし、そのグループは車内を動き始め、しつこく妻や娘にからんできた。

たまらず注意すると血相を変えてけんか腰である。妻と娘はおびえ始めたが、密室状態で逃げ場がない。バスの運転手が注意するものと期待したが、知らんふりだった。

何とかあしらいながら目的地に着いたが、夕食はまた同じ部屋で四十名全員がとることになっていた。妻と娘は「帰りたい」と叫ぶ始末で、結局その着いた日に電車とバスを乗り継ぎながら、家まで帰った。帰宅は当然深夜だった。

他の参加者も何人かがその日に帰った。善意のイベントが少数の者たちの自己中心的な言動でだいなしになってしまった。

テレビに教え子が出ていた。その教え子は地震で家が全壊し、東京の方へ小学校六年生の時に引越しをした。彼女は立派な大学生になって中国に留学していた。しかし、その言葉を聞いたとき、私は強い衝撃を受けた。彼女は、

「私が東京へ引っ越したのは、地震に遭った皆から逃げ出したのじゃあないかと、ずっと思っている。しかも、地震に遭った仲間をおいてきぼりにして……」、更に、 「そんな自分が嫌で許せない」と強く言う。

六年生だった彼女が、卒業式のときだけ東京から戻ってきて参加した事情や、式当日の言葉や動きまで思い出した。明るく母校を巣立った彼女が、大学生の現在まで、東京へ引っ越したことを悔んでいたとは。

テレビでは更に彼女が、当時の私の上司だった校長とメールのやりとりをしていると紹介していた。校長の姿が大写しにされ、彼女がメールを通じて癒されているということを感動的に伝えていた。また彼女がそのメールでのやりとりを通じて前向きな思考になってきたということも、画面を通じて分かった。

地震当日、私は真っ先に小学校へかけつけ、私を含むたった三人の教師で千名を超える避難者を体育館で世話した。脱毛と十キロもの体重減を起こしながらも、二カ月間避難者の世話を続けた。

やがて私は体の変調をきたし、この校長に「どうか被災していない小学校への異動を」と希望したのだが全く無視され、逆に市内で一番の激震地区で校舎全壊の小学校へと異動させられた。

そして、その学校で心臓発作を起こし、倒れ、九カ月間の休職を余儀なくされた。

この休職による給与カットが妻をパートに出させることになり、今度は妻が疲れきって心の病気にかかってしまったのである。

そのすべての原因である異動の責任者が、テレビでは立派な相談者として紹介されていた。教え子だった彼女に対するやさしい言葉をどうしても信じることができない。

地震は妻の体から健康を奪った。妻は現在も薬を飲み続けている。たぶん一生飲み続けるだろう。本来なら労わり支えてくれてもよい者が、それに加担した。

阪神・淡路大震災という極限状態は、一人ひとりの本質を浮び上がらせた。与える者もいれば奪う者もいる。同じ人物の中にもそれが並存している。光と闇をまざまざとみせてくれた。

 

住宅の二重ローンをかかえ、常に破産する恐怖と闘いながら、妻の看病にへとへとになりながら、歯を食いしばって生きている毎日、毎日、毎日。何の希望もない。