高次脳機能障害

城戸 美智子 五十一歳 主婦  北区


震災十年の風があちらこちらで吹き始め、いつもと同じ一日として静かに迎えようと思っている私の心を揺らしている。

六年前、「風の吹くままに流されて生きてゆく」と、書いた手記は『新しい風』とタイトルを付けていただき体験手記集(「今、まだ、やっと… 阪神大震災それぞれの4年目」)に載った。ほんの一瞬にして変わってしまう人生があることを体験し、持って行き所のない心の叫びを一気に書いた。

『新しい風』はどこか希望的に明るく聞こえ、暗い気持ちの私には眩しく思えた。しかし風は確かに吹き、月日は流れた。

あの日、ピアノの下敷きとなり生死の境をさ迷い続けた十四歳の洋子は奇跡の生還をしたが、命と引き換えに普通に生きていくための大切な機能を失った。

名古屋へ、姫路へと病院を転々とし、六年目にして、高次脳機能障害という何の補償制度もない、福祉の谷間にある障害だと知った。

青春真っ盛りであったはずの日々を、霧の中で過ごした洋子は、一生背負って行かねばならない大変な障害を負っていたのだ。はっきりしない言葉も、記憶力、認知判断力、自発性の低下も、この後遺症によるものだったのだ。

「真剣に(リハビリを)やって」と責めた日もある。

この先どうなるのかと悩み苦しんだが、はっきりと障害の名前がわかったことで、ある意味で心の整理がついた。また、新たな悲しみと悔しさが込み上げてきたが、原因は違っても同じ悩みを抱える家族との交流が出来、心強く思った。

現在洋子は二十四歳となり、一人で電車とバスに乗り社会就労センターへ通っている。仲間と共に仕事を通して、社会生活に向けての訓練をしている。そして高次脳機能障害のグループ訓練にも月二回参加している。

高校生活は全日制から定時制へと変わり、無事卒業した。どちらも楽しい思い出と良い先生、友人に恵まれ、洋子の大切な心の財産となっている。小学生だった拓馬は大学生に、直子は高校生となった。いつも目の前に大きく立ちはだかっていた震災は、今は私の横にあり共に歩んでいる。少しは震災を受け入れ生きているということか。悔しいけれど。

しかし、どうしても割り切れない思いが残る。震災で多くの人が亡くなった一方で、その何十倍もの負傷者が出、その中には洋子のように大きな後遺症を負った人もいたはずだ。行政は、死者数にこだわり、この数をもって震災の悲惨さを伝えるという。そんな記事を読んで愕然とした。

では、元気な体は失ったが生きている洋子は震災犠牲者ではないのか。震災からの心のケアとは叫んだが、負傷者にはふれなかった。心以前に、目の前の現実に戸惑っていた私達は忘れ去られていたのだ。

震災セレモニーの中で亡くなられた方々に続くのは、元気な元の体を失っても頑張って生きてゆかねばならない人たちへのエールではないか。私は今までその言葉を聞いてはいない。機械だけによる復興ではなく、人間が係わっての復興ならば、傷ついた人間が元気を取り戻してこそ、真の震災復興と言えるのではないか。

行政に見捨てられた孤独な思いはもうしたくない。そして誰にもさせたくない。

今も大きな揺れがくると、身も心も凍りつく。地震はあの時が最後ではない。

震災で障害者になっても、今ある制度の中でしか対応はできない、と行政は冷たいが、それでもいい。そこへ辿り着くまで、社会復帰に向けて、さまざまな支援の手を差し伸べてはもらえないのか。

震災の混乱の中での迅速な対応も大切だが、それと共に、広い意味での「声掛け」と「声を聞く」という対応が欠けていたのではないだろうか。そして「心のケア窓口」があるのなら「体」もあっていい。迷わなくて済むように、はっきりわかる窓口を速やかに作り案内してほしかった。

洋子は失った物もあったが、みんなにほめてもらえる明るい笑顔は忘れずにいてくれた。この笑顔に泣かされ、励まされ共に生きてきた。

「行ってきまーす」と手を振って出掛ける後ろ姿に、一生無縁だと思っていた幸せ、喜びをふと感じる時がある。

風の吹くままにとは言え、何をするのにもエネルギーがいった。いろんな事にぶち当たりながらここまで来た。何度も挫けた。そんな時、折々に知り合った方々に支えられて、今がある。たくさん流した涙もは少しは目の縁で止める事が出来るようになった。

六年前の手記と同じ、流される人生は変わらないが、支えてくださる大勢の人たちへいっぱいの感謝の気持ちを伝えたい。そして、洋子のことを忘れないでいて欲しい。

 

(注)筆者の手記は、第四巻にも掲載されています。