忘れはしない

末正 盛隆  六十一歳 東灘区


震災から早や十年。歳月が、嫌だったことや目をそむけたくなるようなことから解き放ってくれる。

人間は身勝手な動物だ。あの時あの場所であれだけの思いをしたのに、公言はしなかったけれどこれだけはやるぞと肝に銘じ決心したのに、あれほどのことを自分自身に誓ったのに……。おつむの中では今までの人生観をたたきのめされたのに……。

あれは果たして錯覚だったのか、幻であったのか?

そうだ、私の場合はその程度のことで済んだという証なのだ、と自分に言い聞かせる。未だにあの呪縛から解き放たれずにうめいている方々は何人もいる。解き放たれるのを垣間見ることもなく逝ってしまわれた方もいる。

神や自然は時として無慈悲だ。社会的弱者も強者もない、震災はある意味で双方に公平・公正に襲いかかった。けれども再び立ち上がろうとする時、社会的弱者(高齢者や介護を要する人々)には極めてつれなかった。体力も気力もエネルギーも普通の人の何倍かは必要だ。経済力も必要だというのに。

決してそういう方々にしわ寄せがいってはならない。

やはり「忘れさせてはくれない」、この十年の歳月も私の心の奥底までは。そして決して「忘れはしない」。

私は 長田区 に何ヵ所か土地を所有している。無論私自身が汗をかき努力して手に入れたものではない。祖先から、たまたま私の手元にバトンタッチされてきたものである。

土地を借りてくださっている方々(借地人)があの大地震で、まさしく正真正銘の「災難」に遭われたのである。

その日はそれなりに我家もてんやわんやであった。魚崎のマンションはLPGガス爆発の恐れで避難勧告が出、芦屋の母親宅に家族5人が転がり込んだ。日頃二十分程度で行ける距離に八時間かけての大移動であった。

勿論、阪神高速道路が落下した現場とその惨状も目の当たりにした。

それから一週間位経ってからであろうか。長田の方へ火事見舞いに出かけた。

神戸市 内で、激震の被害がもっとも大きかったの が東灘区と すると、火災の被害がもっとも大きかったの が長田区 だ。

何ヵ所か廻った中で今でも目に焼き付いて忘れられないのは、あの寅さんのロケでも有名な菅原市場の方々が避難されていた避難所での光景だ。

まだ真冬、夕方なのに外は真っ暗。

テントだったかどうか、はっきり覚えていないが、恐る恐るその中にもぐりこんだ。いろりかストーブに薪が焚かれていたような気がする。結構な賑わいであった。じめじめとした、うなだれた雰囲気はまるで感じられず、むしろ熱気に包まれていたような感すらした。

同じ境遇の方々が鼓舞し合っている。

少し会話を交わしていると、とっくに七十歳を超した老人が言った。

「うちは丸焼けだけで済んだんや」

それは、感謝の言葉に聞こえた。うちひしがれたとか、お先真っ暗とかいった気持ちとは縁遠いように思えた。「これから何とかせにゃならん、途方にくれる暇なんかないんだ、がんばるぞ」との前向きな意気込みさえ感じられた。「家や思い出の一杯つまった品々は全て焼けつくしてしまったが、 生命 ( いのち ) は残った、ありがたいなあー」とも聞こえた。

「うちは丸焼けだけで済んだ、それに比べりゃ、亡くなった方々は……」と、死者への鎮魂の気持ちも感じられた。

それに引替え、我家の場合は何たる幸せか!

被害や災難の大きさを今更比較しても始まるまい。けれども私の眼前に、明らかに私より数段ひどい目に遭った方々がおられるのだ。頭をがつんと殴られた瞬間であった。何故か自分を責めてみたくもなる。

私の人生観を変えたといっても過言でない「一言」でもあった。

私は昨年の九月に大阪の企業社会をようやく卒業した。それまで、もうけや効率重視といったそろばん本位の社会に身を委ねていた。いわゆる典型的な企業戦士だった。

このような現場の惨状を知っていながら、いわば見て見ぬふりをしていたのである。

「あの一言」が今だに耳にこびりついて離れない、現在も引きずっている。

今からでも遅くない、何か少しでも震災復興と再生のお役に立てることはないか? と自問自答している。