誤算

北川 京子  六十四歳 介護士  中央区


私の人生の最大の誤算は一九四〇年に私が生まれたことです。

その一年前のことです。日中戦争から戻ってきた父と大恋愛の末結ばれた母だったのに、母は生まれて間も無い私を残して去って行きました。父は再婚し、そして再び戦争。大東亜戦争へと消えて行ったのです。もしやと今も父を待つ私です。

一九九五年(平成七年)一月十七日早朝、大地が割れんばかりの大揺れが起こりました。その直後から、誰もが地獄絵図を見ることとなりました。

私はこの時、その昔岡山にいた頃、戦争で逃げ惑った幼い日のことを思い出しました。私は今でもサイレンの音が怖いのです。震災直後からひっきりなしに、サイレンの音が鳴り響いていました。

私はこの年の一月末に、結婚から二十七年目にして離婚しました。

命からがら脱出した叔母夫婦は西灘小学校に避難していました。叔母は足を挫いて歩けなくなり、おむつをする羽目になりました。

叔母の夫は何者かに首を絞められ失神しましたが命は助かりました。だが彼は私に「インキンになったで、たむしチンキを買ってきて」と言いました。

歩けない叔母の下着と、その夫のチンキ、血膿のついた下着などを持ち帰り洗濯して持参する日が続きました。そんな彼も平成八年末に 中央区 のポートアイランドの仮設で八十二歳の命を終えたのです。

平成九年、叔母は夫亡き後好き勝手にビールを飲み、タバコを吹かし、用があれば私を呼び、気楽な一年を送っていました。

しかし、翌十年一月末、突然痴呆症になり入院しました。以後、仮設に戻ることもなく介護施設へと直行したのです。そして平成十六年三月二日永眠しました。

空気のような存在だった我が家の猫ミーは、震災のとき大ショックを受けていましたが、その後も生き延び、平成十三年七月二十一日早朝、眠るがごとく逝きました。

近頃の一番寂しく悲しい出来事は、三十年以上住み慣れた我等が文化住宅が、平成十六年四月にあっけなく平地となったことです。

平成十五年九月二十一日に隣のマンションに一人で引っ越していたのですが、今頃になって「北川さんどうなったの」なんて聞く人がいます。

震災後の文化住宅は大分傾いていました。特に台所、風呂、トイレは酷かったです。地面も沈下しつつありました。部屋は隙間が拡がっていき、二階の足音がするたびに天井が揺れて響いていました。蟻やその他の虫がゾロゾロ出てきました。

梅雨季には大蜘蛛と百足が壁を這うので、気になって眠れませんでした。

互いに支えあう構造になっていた隣の店が閉店して引っ越してしまいました。そのときは片腕がもがれた寂しさでした。その店の主人にはお世話になりました。震災のとき表の戸が開かなくなって助けを呼んだとき戸を蹴破って助けてくれたのです。

この方は震災後次第に心の病にかかり弱られて、一度は助かったのですが、二度目には自ら命を絶ったのです。その後同じ並びの三軒先のオーナーも突然自ら命を絶ちました。偶然だったのでしょうか。

この家で飼われていたりゅうという犬の最期は、平成十四年一月初めのことでした。

放し飼いにしていましたが、とても聞き分けのよい賢い犬でした。表にりゅうがいてくれるので、いつも安心でした。震災の日、隣のガレージの地下で避難生活していたとき、りゅうもミーも毛布の中に潜ってきて不安な顔をして震えていました。夜遅く隣の奥さんがりゅうと長話をしているのをよく見聞きしたものです。

荒んだ人の心の愚痴を黙って聞いてくれたりゅうが、最期を迎えたのです。付き添って見ることにしました。新聞やタオルでくるんで、小屋の中の彼の大きな体を温めてやりました。彼の好きな牛乳を温めて鼻先に持っていくと、三口なめただけでした。

その後も仲よしの友が一人、二人と消えていきました。昨日まで元気だった人が突然帰らぬ人となることが、震災後特に多くなりました。

それまでは他人事のように、「私はまだ大丈夫」と思っていたのですが、震災後十年が近付く今になって、先に逝った友や人に起こったことが私の身にも現実に見え始めたのです。夜眠れなくなりました。

痛い、痒い、暑い、寒いに我慢が出来なくなりました。人のことに興味もなくなり、よく物忘れもします。それに人を疑うようになりました。胸も時々苦しくなります。

時々更地となった元の住処跡の前に立ちます。人々の笑い声や話し声が聞こえてくる気がします。けれども、隣の店や犬やお客や住人達の姿は今はもう見えません。みんなどこへ行ってしまったのだろうか。

もうすぐあの日の十年目がやって来ます。

忘れないで、私はまだ生きております。

 

(注)筆者は第二巻に掲載された「茶碗は割れた」で「震災離婚」のいきさつを発表以来、第六巻まで継続して身辺に起こった事実をご投稿くださいました。