ミシン場

薄木 智子 四十四歳  ケミカルシューズ関連自営業  須磨区


震災当時、震災のことについて誰かに尋ねられたりすると、被災した多くの方がそうだったように、私も「このときはこうでね、あのときはこうだったのよ」と勢いよく少し興奮気味に話したものでした。

でも二年、三年とたっていくうちに私の中で何かが変わっていく感じで、震災に関することを話さなくなっていきました。そうしている間に年月だけは確実に流れていき、早十年になろうとしています。

私達夫婦は相変わらず二人でミシンを踏んでいます。仕事量はというと、震災後はメーカーが海外に安い工賃で仕事を出してしまうという動きが強くなり、私達のような小さな「ミシン場」と呼ばれる所には、なかなか仕事が回ってこなくなりました。

といっても「内職屋さん」と呼ばれるメーカーとの間で仕事を運んでくれる方のおかげで、今まで仕事を続けることができました。でも今までは今までとして、これからはまた少しずつ事情が変わっていくような気配が感じられて、どうなっていくのかという不安がいつもつきまとっています。

震災当時、小学校一年だった娘が高校二年、幼稚園の年中組だった息子が中学三年になりました。あのときまだ抱っこされたりしていた息子が、今では父親より背が高くなりました。子供の成長を改めて見ると、やっぱり十年たったんだなあと感じます。

今年になって周りで「震災から十年」という言葉がよく聞かれるようになりました。震災当時は自分達がいかに大変な状況にあるかということで頭が一杯で、人に聞かれたりすると、少し興奮気味にその自分達が置かれた状況を話していました。しかし最近は、自分達が知らない間にというと何かおかしな感じがしますが、バタバタと生活することに精一杯で、今が震災から何年目などとあまり考えていなかったので、十年目なんだと改めて感じています。

子供達もたまに当時のことを口にすることがあります。自分達が私の母の実家に預けられていた時のこと、そこで短い期間だったけど通った小学校のお友達のこと、親元に戻った時のうれしかったこと、一緒に水汲みをしたこと、電気やガスがやっと復旧して、久しぶりに炊いたご飯がおいしくって四杯もおかわりしたこと、二人とも戻って来てからずっと微熱が続き、おなかの調子が悪かった時に診察していただいた、広島県からボランティアで来てくださっていた病院の先生と看護師さんが優しかったこと、近くの小学校の運動場で自衛隊の野営のテントのお風呂に町内の人達と入ったこと、自分達が熱いお風呂につかっているときに、テントの外や上でお風呂がちゃんと使えるように、寒い冷たい風が吹いている中を見守ってくださっていた自衛隊の方がすごく立派に思えたことなど、たくさん鮮明に覚えているのには本当に、驚かされました。

親である私も、自分が手にケガをして、震災直後私がさわったところを明るくなってから見たら、血だらけだったこと、私がいた一階と主人と子供のいた二階が遮断されてなかなか無事が確認できなくて不安だったこと、息子の通う幼稚園が再開されて、瓦礫の中を送り迎えしている途中に、急に「ご家族何人ですか」と聞かれ、四人分の炊き込みご飯を手に持たせてくださったボランティアの優しい笑顔、町内の配給が手際よく渡るように、小学校で、よく通る張りのある声で指示してくれていた女子大生の元気な明るい顔、水汲みの帰りにバケツを載せていた台車がバランスを崩したときに、横から支えてくださった巡回中の警察官、子供の体調が悪かったとき優しく診てくださったボランティアの病院の方々。あの当時心身共に疲れ切っていた私の心を、優しく温かくしてくださった方々のことが思い出されます。

そういった人間の温かさ、優しさ、ありがたさに感謝した記憶とともに、私の中に残っているのは人間の反対の面です。

近所の人から「〇〇公園で救援物資の配給があるよ」と聞き、寒い中長蛇の列に並びました。私のすぐ前には小さな子供を二人連れた若いお母さんが並んでいました。家が全焼して何も取り出すことができず、子供たちの服も知り合いからもらっているとのこと、よく見てみるとサイズも合っていないようでした。

長い時間待ってやっと自分の番が回ってくるころ、ワゴン車に青いビニール袋一杯の配給物資をいくつも積み込んでいる人がいました。「新しい服いっぱいもらった」などと話しているのが聞こえてきました。どうやら配給があるのを新聞で見てきた、被災者でない人達のようでした。

自分の番が回ってきてやっともらえたのは割り箸だけでした。一緒に並んでいた若いお母さんもそうでした。被災者が冷たい風の吹きさらしの中を長い時間並んでもらったのが割り箸です。被災者でない人がいくつもの袋に新しい衣類を詰めて車に積んでちゃんとした家に帰っていく。このとき、今まで感じたことのない矛盾を強く感じました。

私達がいただいて本当にありがたかった物に義援金があります。本当にうれしかったです。でも、この時にも私の中で矛盾を感じました。義援金は住民票のある家屋が全半壊した場合に出ました。自営業の多くの人は自宅と仕事場が違っていました。この場合どちらも全壊であっても、片方にしか出ません。被災世帯があまりに多かったため、金額も多くはありませんでした。

自営業者で辛い思いをしている人は想像以上の数だと思います。

また、こんな話もあります。ご主人が被災地外の会社に勤めていて、家賃補助のあったアパートが被災して被災地から出て行きました。その引越し費用も家賃も援助対象になり義援金も受け取り、その方は「こんなに受け取っていいのかしら」とおっしゃっていました。

十年たっても楽にならない状況の中で、被災者に対する支援の不平等、矛盾を改めて感じます。国はもっと国民に対してできることがあると思います。

 

(注)筆者の手記は、第二、三、四巻にも掲載されています。