一時帰国

西山 珠祐 三十七歳 主婦 和歌山県


「誰か助けてー」

フー、またあの夢をみた。

もう震災から何年もたっているのに、ときどき震災の夢をみる。結婚し、子供ができ幸せなのに。地震が発生して、「どうやって逃げればいいのか」と考えている夢。

「避難場所はどこだっけ。三人の子をどうやって連れて逃げよう。何がいるかな」など色々思っては、夢でシミュレーションしている。

大人の私でこうなのだから、子供たちの心にはどのような感情が残ったのだろうか。

一九九五年一月十七日、私は青年海外協力隊隊員として南米のボリビアへ赴任していたが、任期の一年延長に伴い、 神戸市垂水区 の実家に一時帰国していた。

二年ぶりの日本。わが家。数日後にはおなかに小さい命を宿していた妹夫婦も勤務先から来て、両親、弟と一緒に有馬温泉に行くことになっていた。任地ボリビアではシャワーのみの生活だったから、温泉がとても楽しみだった。

その日、両親とおば二人がシンガポール旅行から帰って来て、そのまま泊まっていた。旅先の話に笑い、眠りについた数時間後の五時四十六分、あの大地震が起きた。

十年たつ今でも、全壊した板宿の父の司法書士事務所への道をみると、そこをリュックを背負って母と歩いたあの日を思い出す。

あの時は飲まず食わずであれだけ歩いても、苦しくとも何ともなかった。

父と長田方面へも歩いた。全壊した家から聞こえる目覚し時計のベル。あのベルを止める人はもういないのだろうか。なんとも言えない虚しさ、悲しみで一杯だった。

父達も事務所続きの棟から二人程助け出したが、助け出された後も皆放心状態だった。いたるところで火の手が見え恐ろしかった。

焼け跡を、懸命に何かを探して歩いている人。

自分のことで精一杯だけど、困っている人に手をさしのべている姿もたくさん見た。そして電話機に長蛇の列。

私も通訳のボランティアとして登録したが、出番はなかった。

その後電気は通ったが、ガス、水道は復興の見通しが立たず、親戚や友人宅へ時折お風呂に入りに行かせてもらった。水を運んでもらうなど、色々な人に助けられた。

余震と復旧作業の中、私が任国ボリビアに帰らないといけない日もせまってきた。混乱が続く中、後ろ髪を引かれる思いで、任国に向かうこととなった。交通機関が遮断されて東向きに進めないため、妹のいる広島まで送ってもらい、空路羽田へ。青年海外協力隊隊員のOG、OBに見送られ空の人となった。

ボリビアに着くと何故かホッとした。その半面、今頃父や母、弟は大変な思いをしていると思うと、帰った方がいいのかと悩みもした。

帰ってきてから知ったのだが、(今と違い、当時はラジオ・ジャパンが唯一の情報手段)大地震の放送に今の主人をはじめ皆安否を非常に心配してくれたらしい。友人や家族を通じて私のところに連絡をいただいた。

「一人じゃない、頑張ろう」と勇気づけられ、仲間、友の大切さを痛感した。

先に帰国した同期の隊員も、被災地に手をさしのべてくれた。毎日、ラジオ・ジャパンに耳を傾け、生きていることを実感した。

日本では父の事務所が全壊し、自宅の一室で仕事を再開した。

一室が事務所になり、いたるところが、掘り起こされた書類の山となった。

父も母も疲れているのが電話や手紙からも伝わってきた。そして震災のストレスやショックから、父の片方の耳は聞こえにくくなり、今ではもうほとんど聞こえない。

両親が頑張る姿は、私に勇気と「ここで踏ん張らなくては」との思いをくれた。

そして三月には弟が勉強のため熊本へ。六月には妹夫婦に長男が生まれた。両親にとって初孫。忙しい中、この孫の誕生は心に笑いの灯をともしてくれたと思う。

あの震災で私達の生活は一転した。

心にも爪跡をたくさん残したが、偶然日本にいて、地震を家族と共に体験できてよかったと思っている。任国で状況が分からず気をもんでいたよりよかった。

ボリビアに予定通り戻るか、もう少し滞在していようか迷った時、背中を押してくれたのは、ボリビア行きにあれだけ反対していた母だった。

一年後、正式に任期が満了した私は、大阪から電車に乗り空地の増えた街並に驚き、ショックを受けた。が、そこで働く人々に力強さを感じた。

この街には犠牲となった大勢の人と生き物が眠っている。そしてその悲しみを、乗り越えようとする人々がいる。

父の事務所も一年半後新しい場所(名谷の自宅)へ移転し、家もようやく元に戻った。この移転は本当に嬉しかった。幼い頃から馴染んできた古い事務所はつぶれたが、それを五十代で乗り越え、新事務所へ行く父がほこらしかった。

震災でたくさんの悲しみと共にたくさんの事も学んだ。

あの日から十年。今度は私達が子供たちに震災の事を語っていく番だと思う。

いつまでも忘れず、乗り越えていくために。