全焼の痛み

久國 翠 七十二歳 アルバイト  兵庫区


兵庫区 の夢野から南へ、神戸電鉄のガードをくぐり川崎病院の西から大井通まで歩いて来た私は、その辺りの光景に思わず息をのんだ。

視野に広がる黒い灰の山、一昨日までの街並が、一夜にして消え去っていた。

私の町(松本通五丁目)は、この地震による火災で全焼という大きな被害を受けた。

全くといっていい程消火活動もなく、燃えるにまかせ、焼け落ちていく自分達の家を前に、なすすべもなく呆然と立ちつくすのみであった。

なぜ。なぜ私達の町だけが。道一つ隔てた隣の町は焼けずに残っているのに。

憤懣やるかたない気持ちは後々まで尾を引いた。

それと、もう一つ納得できなかったのは、行政の対応であった。

全てが灰になってしまった「全焼」と「全壊」とを同じレベルにして扱ったということである。今でも釈然としない思いが残っている。

私は六十余年過ごしてきた暮らしの全てをなくしてしまった。子供たちが生まれて初めて自分の名前を書いたノート。日々の成長アルバム、各学校の卒業証書等々、金銭をもって購うことのできないものを失ったことは、私にとっては計り知れない悲しいことであった。

子供たちに申し訳ないことをしたという思いは消えることはない。

あのとき下からドスーンと突き上げるようなショックで目が覚めた。何だろう、私は思わず頭から布団を被った。

しばらく横ゆれが続き、地震だとわかったが、今まで経験したことのない激しい揺れだった。「ガシャガシャ」と屋根瓦が落ちて割れる音、「助けてー」という悲鳴も家の外から聞こえてくる。

部屋の中は家具が倒れ、テレビが滑り落ち、ピアノも数十センチ移動していた。

和タンスが倒れ、仏壇に当たって止まっている。仏壇がそこになかったら、前で寝ていた夫は、下敷きになっていたであろう。

階段が一段落ちて、足元がおぼつかない。戸棚のガラスが散乱して、素足で歩くことができない。

外に出ようとしたが、壁がはがれ落ちて裏口は開かなかった。ようやく表のシャッターが半分くらい上り、出ることができた。

電話のベルが鳴っていたが、倒れた物が邪魔をして受話器が取れなかった。

電話に出ないので、もしかしたらと思ったのであろう、須磨の次女夫婦が車で走ってきてくれた。お互いの無事を確認し、安心した二人は、自分たちの家のこともあり帰って行った。

このときは、まだ道路も渋滞はなく走れたそうである。少しでも荷物を運んでおけばよかったと、後で娘と話し合ったことである。

夫と私は、台車に毛布など少しの物を積んで、旧中道小学校へ避難した。瓦礫で通れない道もあり、目と鼻の先のはずの小学校はやたらに遠く、ようやく辿り着いた時は、校舎も廊下も避難の人で溢れていた。

グラウンドに行くと、そこにも多くの人が集まってきていた。

数人の人たちが廃材を運んできて、火を燃やしてくれていた。その焚き火は暖かく、一番寒い季節の夜中ではあったが、そのおかげで心がいやされていた。みんな一様に押し黙って座っていた。

逃れてきたわが家の方の空が赤く染まっていた。まだ燃え続けているのであろう。

ふと朝から満足に食事をしていないことに気が付いた。持って出た袋の中を探すと、昨夜のシシャモが、それも二匹だけ入っていた。それを夫と一匹ずつ口に入れた。

ドドッと繰り返す余震に怯えながら、眠れぬ一夜を過ごした。

「被災された皆さん、もうすぐ夜が明けます。頑張ってください」

誰かのラジオが、繰り返しそう言っていた。

朝になって、子供たちと連絡をとり、電気が使える長女宅の近くの、夢野小学校に移動した。息子や、娘たちもそれぞれに被害を受けたが、全焼というのは私達夫婦だけであった。まだしも不幸中の幸いであった。

その後、姫路の親戚の家に避難し、おかげで水やガスなどに苦労しない暮らしをすることができた。ありがたかった。

五月からは 神戸市 内の子ども達の家に待機し、西鈴蘭台の仮設住宅にようやく当選し移り住んだ。十ヵ月あまり、ある意味では仮設住宅暮らしを楽しんだ。

平成八年三月になると、 神戸市 から業務用仮設住宅建設の連絡があった。申し込むと、補欠の十番だったが、繰り上げ当選になった。この仮設は自宅を再建する人のためのものだったが、辞退者が相次いで出たためらしかった。被災地のすぐそばに建てられていて、仮設とは思えないような本格的な建物であった。

平成九年の秋になって、仮換地の指定があり、家を建設できることになった。早速業者と契約し、準備にかかった。

夫はこの年の夏ごろから体調を崩し入院、手術をした。私たち家族は、長くて余命一年との宣告を受けていた。

夫は平成十年の正月は、何とか迎えることができ、三月末に家が完成した。地震後三年余り、ようやく仮設暮らしから脱出することができた。

その二ヵ月半後、四十四年余りの、夫と私の生活が終わりを告げた。

入院中も、家に帰ってからも、ベッドで新居の図面を広げ、家具の配置を試行錯誤していたけれど、それが命を縮めてしまったのか、あるいは、生きる力になったのか、今も分からない。でも、引越し後しばらくして、

「やっとひと段落したな」

と漏らした言葉を、私は忘れることができない。

来年は震災十周年を迎える。焼け野原だった私の町も、区画整理事業によって新しい町に生まれ変わった。

道路も広く、歩道にはせせらぎが流れ、金魚や鯉が泳いでいる。

街灯も明るく、防犯上からも住みよい町へと変身した。

「平成十三年九月末、完成」

「喉元過ぎれば…」ではないが、普段の生活では薄れていく記憶。

そんなとき、紀伊半島沖を震源とする地震があった。震度3であったが、私はかなり動揺した。やはりあのときのことが脳裏に甦る。阪神・淡路大震災は、私にとって辛い体験であった。