どこまで続く

守田 基師子 六十一歳  須磨区


神戸に住み始めてからほぼ四十年。そしてあの震災から早いもので十年が経つ。

今になって思えば、震災直後は、まわりの方々の応援や、私自身の生きるための必死の粘りによって、何とか頑張ることができた。

被災当時私は三宮に住んでいたが、大阪で四ヵ月の避難生活を送り、その後加古川の知人の家を借りての三年にも及ぶ仮住まいとなった。その間、心の病と闘っていた長女を支えながらやっと歩いて来た。

この十年、苦しみや困難の中で、家族と自らを必死に支えて来た。しかし今、年齢の変化と共に、自分を支える気力が日に日に弱って来ている。十年前は五十一歳。その私も今や六十一歳。

これまでの私の人生は、それなりに世間の評価を頂いた人生であった。十年前には、幸せな夢を持てる生活をきっと再び取り戻せると信じ、懸命に歩けた。しかし、私の頑張りを笑うかのように、現実は違っていた。

震災直後、罹災証明を役所に申請した時、半壊証明をもらえるものと信じていたが、二十回程通って得たものは、一部損壊の紙切れだけだった。半壊証明は東京の大学に在学中の長男の授業料の減額や公の家を借りるためにも必要なものであった。

私はその時言われた言葉を決して忘れる事は出来ない。

「守田さん、あなたの苦しい現実はよく分かります。しかし決まりは決まりです。半壊証明は絶対に出せません。しかし、どうしても必要と言うのであれば方法がありますよ」

藁にもすがる思いで私はぜひ教えて欲しいとお願いした。その答は、

「守田さん、あなたが法律を変えてください」

一瞬言葉の意味がよく分からず、私の頭は真っ白になった。しかし、少しずつ混乱した頭を整理して、日本社会の現実を知ることになった。

政治の在り方、行政の仕組み、すべてが苦しい人を見殺しにして、決まりの枠からはみ出ようともせず、役所と役人の立場を守ろうとするばかりである。市民から税金を預かり、税金から給料を得ているはずの役所の方々に、心ある働きはほとんど見られなかった。たとえ前例がなくとも、自らの判断を信じ、困っている人を救う勇気を出そうとする人はいなかった。

当時の日銀神戸支店長、遠藤勝裕氏の勇気ある判断と行動が報道され、大きな感動を呼んだ事をご存知の方も多いと思う。遠藤氏は「焼けてしまったお札は、たとえ形は残っていなくても申告通りに全額渡しなさい」、と指示をされたという。後でたとえ責任を問われたとしても、その責めを負う覚悟で判断をされたのであろう。

しかし私が神戸の非常時に見た役所の対応は、心欠くものであった。

「あなたが法律を変えてください」

苦しんでいる市民にそんな事しか言えなかったのが現実である。しかし、私はこの言葉のおかげで市民として何をなすべきなのかを教わったような気がする。そして、これ以上の悲劇は作りたくないとの思いで、当時建設予定の神戸空港の是非をめぐる住民投票条例制定の署名運動に汗を流した。

当時の笹山市長の掲げる言葉は「市民が主人公の政治」であった。しかし、現実には、心ある市民の意見を無視し、経営破綻をきたすのは時間の問題として全国の有識者が不要論を唱えている、空港の建設をしようとしていた。

三十一万市民が空港建設に対して意見を述べさせて欲しいとの願いも、強行採決という暴挙で否決し、現在も空港建設にまい進中である。この国の権力と富を持っている人たちが、更に今以上の富と権力を求めてゆく姿に絶望さえ感じる。

被災者としての苦しみの中で、仲間の人々の中に残っているエネルギーと少々のお金をはたき、空港反対のために市議会議員に立候補した事もある。しかし、 神戸市 民は真の現実を見つめようとはせず、今まで通りの人達にしか投票しなかった。自分達が当面困らなければそれでよしとする、短絡的なものしかそこには見えない。

一方、私にはもう一つの苦しみがあった。三十五歳になる長女はこの十年、心の病との闘いに明け暮れていた。時には自らの命を絶とうとすることもあり、時にはその苦しみが、私に向けられることもあった。私の体も心もボロボロになる日々が続いた。

しかし、三年前にある青年と縁があり、結婚、可愛い男の子を授かった。今では二歳になるが、まだ病の苦しみの中にある母に、大きな喜びと元気というエネルギーを分けている。実に明るく笑顔の素敵な子を神様は娘に授けてくださったと、心の底から感謝している。

苦しい、苦しいと思っている現実も、こうして少しずつ何かの力によって支えられ、助けられた。一人の力では耐えられなくても、大勢の人々によって支えられて生かされている。感謝の連続である。「何とかなる」だ。そんな気持ちまで辿り着けたと思っていた。

しかし、現実はそんなに甘いものではなかった。

昨年(平成十五年)の十月、事業を進める中で、これからの人生に備えるべく蓄えていたものを、信用していた相手に持ち去られた。今はその行方すら分からない状態である。

まじめにこつこつ頑張って、ささやかな楽しみを夢見ていた私の人生は、この日を境にして、また一変してしまった。震災からも頑張り抜いた私は、再び苦しみのどん底へと追い詰められてしまったのだ。

多くは語りたくない。しかし大金をこの手からもぎ取られた苦しみは、言葉には言い表し難い。私は三日三晩涙した。

しかし希望が見えて来るわけでもなく、何の解決方法も見つからず、私の中の生きる力、頑張る力は残っていなかった。

「もう頑張るのはやめよう」

それは即ち人生のピリオドをも意味している。小さな孫を抱きながらポロポロと、とめどなくあふれ出る涙。私の力ではどうする事も出来ない現実。

しかし、けげんな顔をする孫を見て、私は涙を流すのを三日でやめた。たとえ涙を流したとしても、失った大金を誰かが返してくれる訳でもない。ましてや大金をなくしてしまった事実が消える訳でもない。そうであれば、私が出せる答えはふたつしかなかった。

生きることをやめるのか。それとも、すべてを忘れてしまうのか。

どんなに辛くて、苦しかろうと、すべてを忘れる事にした。私はその日から再び現実との闘いを始めた。

顔では笑い、元気な振りをして生きている私も、経済的な厳しさに直面し、時に顔はゆがみ、歩む足も止まりがちである。今年三月にはエスカレーターでもんどりうって転落し、奇跡的に一命を取りとめた。今までになく、自分がボロボロになっているのを感じている。

それでも小さな命があり、代え難い無心の笑いを見せ、病に苦しむ母親とこの私を励ましてくれている。

今やっと心の病の娘の辛さが理解できるような気がする。そんな娘に心から頭を下げた。

「ごめんね、頑張らなくてもいいからね」

自分自身にも言い聞かせているのかも知れない。

震災から十年が過ぎようとしている。

昨年から、さらに苦境に立つ私も、ささやかではあるが、社会の苦しい人達のお役に立ちたいと願って今も頑張っている。社会へのお返しを続けてゆくつもりである。それは今まで私を支えてくださった方々への感謝の気持ちでもある。

そして再び天災という大きな悲劇が起こることがないように心から祈ってやまない。

最後に、この会の活動を続けてこられた高森さんとスタッフの皆様に心からお礼を申し上げます。

被災直後、生き方を見失っていたときに、三宮の電柱に貼ってあった震災体験手記募集のポスターに出会った。懸命に生きる体験を記録することで、一年一年を過ごしてこられた。懸命に努力し、その姿を報告することで今日がある。これがなかったら、もっと苦しんでいたに違いない。

被災者のひとりとして、心から感謝申し上げたい。ありがとうございました。

 

(注)筆者の手記は、第二〜七巻にも掲載されています。