斎藤 敏彦 七十六歳 東灘区


ドスン、と下から突き上げる衝撃と、体を激しくゆさぶる激震にこれはすごい地震だと思った。

何秒間だったか、私自身の感覚では約五秒。グシャリ(少し乾いた音)、グチャリ(少し湿気を持った音)。私はその両方の音を聞いた。

呼吸が苦しかった。息を吸えば砂埃がみんな胸の中に入っていくのだった。同時に体全部にのしかかってくる重さに死が頭をよぎった。「死ぬのかな」と思った。死とはこんなものかと思った。あっけない死。

長いようで短かった人生を思った。そのとき一メートルくらい上から妻の嘉世の声がした。

「おとうさん」。

「あっ、妻は助かっているんだ」と思った。すぐに言った。

「体の上に何か重いものがある。どけてくれ(大分弁)」

妻は暗い中、手探りで必死に動いているようだ。しばらくして、全く動けなかった手足が軽くなったような気がした。そうなると、そこは柔道で押え込まれたときの要領、気合い一声、するりと布団から抜け出した。助かった。

しかし相変わらず息が苦しい。妻と手をつないで廊下に出た。階段に行ってみた。階段が直立していた。階段下に置いてあったピアノは見えなかった。

窓ガラスを蹴破って物干し台のベランダに出た。もう夜明けで、 灘区 琵琶町の自宅の周囲は遠くまで見えた。ぐるりと見渡したが、立っている家はなかった。全滅である。すごい地震だったなあと改めて思った。すぐ腕時計を見た。六時二十分。

あとで地震発生が午前五時四十六分と知った。私達は脱出するのに三十四分かかっていたのだ。ふと下を見てあっと驚いた。七十センチほど下が地面ではないか。ということは一階がない。一階が押しつぶされたのだ。

「それでは一階に寝ていた母は?」、ぶるっと、体が震えた。「即死!」。声も出なかった。どっかりと屋根瓦の上に座り込んだ。

そのとき妻が大声で呼び始めた。

「おばあちゃん、おばあちゃん」

うちでは母のことをずっと「ばあちゃん」と呼んでいた。妻は大粒の涙を流しながら、 「おばあちゃん」「おばあちゃん」と連呼している。

「駄目だよ、やめておけ」と、私は心の中で思った。でもあとで「あなた、薄情な人ね。実の母の名前を一度も呼ばなかったわね」と言われそうで仕方なく立ち上がって、

「おばあちゃん」と呼んでみた。三回大声で呼び、それで何の反応もなかったらやめようと、初めから思っていた。そしたら、三度目の私の声に、

「はーい」と母の弱々しい声を聞いた。

「おい、生きているぞ」、私は驚いた。

そのときの妻の動作は速かった。ぱっ、ぱっと屋根瓦の上を飛び、走って行った。十分もしないうちに青年を二人連れてきた。

「この一階に母がいます。助けてください。お願いします」と私は言った。

三十分くらいかかっただろうか。やがて二人の青年は母を引っ張りあげた。嬉しかった。お礼の言葉を何度も言った。そして二人の青年の名前まで聞いた。

ところが、やはり落ち着いていたようで頭が混乱していたのか、あとでいくら二人の青年の名前を思い出そうとしても思い出せなかった。今だにお礼を言っていない。母の命の恩人である彼らに幸せがくるように、今でもいつも祈っている。

ところでこれからがこの文章の主題である。

実は妻と母はまさに犬猿の仲だった。昭和五十一年に小倉にいた父が死亡したとき、五人兄妹が相談した結果、長男である私が母を引き取ることになった。

明治四十年生まれの母は少し難しいところがあって、それをよく知っている他の弟や妹たちは逡巡した。まさに押しつけられた格好で母を我が家に引き取った。

妻はそんなことは知らないから、一生懸命に姑に仕えた。しかし一ヵ月もしないうちに、とてもじゃないと気付いたようだ。我が家に引き取ったときに七十一歳だった老母は、地震のあった平成七年には八十八歳になっていた。

その間、嫁姑の争いの中で私はどっちにもつかず悩んでいた。あるとき妻は「私を取るか、お母さんを取るかどっちかにしてください」と私に迫った。離婚はできないから、近所のアパートを借りて別居ということにしようか、というところまで話は進んでいたのである。

そういうときの地震だった。普通なら、義母が死んでやれやれというところだろう。しかし、妻は違った。妻には過去の恨みはなかった。未曾有の大地震に、妻から恨みや憎しみという私情が消し飛んだのだ。

「なんと崇高な精神(心)だろうか」と、あとでつくづく妻のやさしい気持ちを思った。懐かしく、恋しい思いで妻を偲んだ。そう、偲んでいる。妻は翌年、仮設住宅で、六十二歳の若さでこの世を去った。胃ガンだった。

母は九十八歳、今も施設で元気、健在である。