娘との時間

真治 かおり 四十八歳 主婦  兵庫区


十年前の一月十九日、娘の春菜は明石の病院で生まれました。そうです、あの地震の二日後でした。

出産前から胎児の腎臓が悪いことが分かっており、十六日に兵庫県立子ども病院に入院していました。そして翌日未明の大地震、自宅にいたら落下した荷物の下敷きになっていたところを、私と息子は入院していたおかげで命を救われました。

翌十八日、 明石市 立市民病院に救急車で転院、その次の日のことでした。

娘はコルネリア・デ・ランゲ症候群という難病で、二年の生命と言われ、寝たきりで重度の障害を持っていました。そして三年前の平成十四年五月、突然の呼吸不全で天国に還って行きました。

この七年三ヵ月、地震後から過ごした娘との時間をふり返りたいと思います。

地震のあと、皆それぞれに大変な苦労をしながら、でも協力し合いながら過ごした春。娘を検査入院させながら、ほんの少ししか飲めないミルクを、いかに飲ませるかに努力する毎日でした。

四月からは小学校や保育園も通常になり、宝塚の方に避難していた甥や姪は、地元の学校に戻ってきました。息子も元気に保育園に通い始めました。

町はまだブルーシートに被われた所も多くありましたが、少しずつ活気を取り戻しつつあります。被災した子供を対象にしたイベントも多数開催され、息子を連れてよく参加しました。

十二月から娘はリハビリをするための施設に通うことになりました。この施設も、地震直後は使用できなくて、灘の方に仮住まいをしていたそうです。バギーや車椅子の子供たちを園の先生方が駅のホームまで迎えて、一人ずつ階段を昇り降りさせたと聞いています。

娘が入園した十二月には、元の場所に戻っていました。クリスマス会の催しのときには、寄付されたサンタやトナカイの縫いぐるみ、アイスクリームケーキなどお土産をたくさんいただきました。

地震で家が全半壊した方には、義援金や見舞金が支払われたり、保育料免除などの措置が取られたりしていました。しかし、心のケアは後回しだったようです。

二年三ヵ月、初めの頃は週に一、二回しか通えなかった娘も、卒園間際には通院で行けない時以外、皆勤賞がもらえる位に通園できるようになりました。そして、次に入園したのが、仮設の施設です。

地震がなければ建設する予定だった場所に造れず、元の場所に建て替えるまでの仮の園でした。ブレハブの平屋建てで、あまり居心地の良い所ではなく、駐車場もないので路上駐車、場所がなくなると遠い駐車場まで止めに行かなければなりませんでした。

その仮設施設に一年通い、二年目からは新築の立派な施設に二年間元気に通いました。

鎮魂と復興のためのルミナリエが一九九五年の暮れから催されることになり、一回目は娘が小さ過ぎて無理でしたが、二回目以降は毎年初日に訪れました。点灯式は避けて夕食後、人出が一段落した時間を目がけて行くのです。

目はあまりよく見えないのですが、暗い所から明るい光りの所まで進むと、目を細めたりBGMを聞いているような素振りを見せたりして、私の腕の中で充分ルミナリエを楽しんでいました。

さて、娘の体調も安定し、日常も平穏無事に過ごせるようになった頃、私には同窓会やクラス会に出るチャンスが増えてきました。

しばらく仮設住まいで不便な思いをした人、マンションの建て替えが理事会で決まらず、そのままの状態で転勤が決まり泣く泣く関東方面へ引っ越した人、家の下敷きになったお兄さんを亡くした人、家に住めないショックでストレスがたまったお父さんを亡くした人、二重ローンを背負いパートで働きだした人、永年住み慣れた実家を建て替えることができず、やむなく地方に引っ越した人、遠くにいるが有休を取ってボランティアに来ていた人、等々。

でも、私のように、娘のおかげで生命が助かったという幸運な人は見当たりませんでした。

二〇〇一年四月には、養護学校の小学部に入学しました。以前お世話になった新聞社の方から取材の申し込みがあり、新一年生の特集記事に載せていただきました。

気が付けばもう六年たったんだなー

二年しか生きられないと言われたのに

ここまでよく頑張ってきたねー、春菜ちゃん

一時間くらいスクールバスに乗って通学したのですが、その途中バスの窓から町を見ると、目立つ所には大きなビルが建設され、道路も舗装され、地震があったことなんて忘れてしまったかのように見えます。

でも、少し視点を変えてみると、駐車場が増えているのに気が付きます。新築した家に駐車場を造る場合も多いですが、家やビルを建てられず、やむなく駐車場にしているのだろうかとも思います。

なかには周りはすっかりきれいに建て直されているのに一軒だけ古いままの家があり、お年寄りが軒先の植木に水をまいているのが見られたりします。

今住んでいる地域も、最近住めなくなったと言って、引っ越された所が何軒かあります。地震の後、修理したけれど、もうそれももたなくなってきたみたいです。

十年一昔と言いますが、地震後の十年は目まぐるしいものでした。七年三ヵ月で娘の命の灯は消えてしまいましたが、私にとって阪神大震災は「娘をさずかり、そしてその娘に生命を助けられた」という、いつまでも忘れることのできない出来事です。

私はこれからも鮮明に思い続けていきます。あの地震を、そして娘春菜のことを。

(注)筆者の手記は、第三巻にも掲載されています。