二つの命

高井 千珠 四十三歳  主婦 西宮市


一九九五年一月、私達夫婦は、山口県で結婚後年半経って授かった、当時一歳半の男女の双子の子供達と幸せな日々を送っていた。

震災前の三連休、大阪で行われる知人の結婚式への出席を兼ねて、西宮市の私の実家に里帰りしていた。最終日の夜、次の日から仕事がある主人一人だけが山口県に戻った。次の朝、阪神淡路大震災が実家に残った私と子供達を襲った。そして、息子は、わずか一歳半で天国へ旅立った。

大きなゆれで目が覚めた。隣に寝ていた息子の「うっ!」といううめき声で我に返った。すぐ隣に寝ている息子に手を伸ばした。しかし、手に触れたのは息子ではなく息子の上に倒れたタンスだった。その上には、崩れ落ちた天井や梁などが載っていて、どんなに頑張っても私と母だけでは、持ち上げる事はできなかった。

無理かもしれないと思ったその時、娘の激しい泣き声が耳に入ってきた。暗闇の中に置き去りにされ、私と母の異常な様子に恐怖と不安でいっぱいだったのだろう。崩れ落ちた瓦礫の隙間から手探りで娘をひきよせて抱きしめた。

その後、「大きな余震が何度もきた」と聞いたが、私は、息子の事で頭が一杯で余震を感じる余裕はなかった。しばらくして、上の方からわずかな灯りがさしてきた近所の方たちが瓦を一枚ずつはがしてくれたのだ。娘、母、そして私の順で外に出た。屋根の上に立って、倒壊したまわりの家を見て初めて被害の大きさを知った。近所の方達が何人か入って息子の救出が始まった。タンスの下で息子を見つけた方は、「無理に引っ張ると息子の手がとれると思った。自分のせいで息子の手がとれてしまっては申しわけないから」と、私の弟がその役をすることになった。暫くして弟が息子を抱いて降りてきた。

息子には、すでに紫斑が出ていた。息子の脈をとろうとしたが、どこを探しても脈を感じることはできなかった。病院へ連れて行くために道路に出た。見知らぬ人が車を出してくれた。途中、道路は亀裂が入り50pほどの段差ができていた。迂回してやっと病院についた。

ロビーや廊下、診察室はすでに人でいっぱいだったが、すぐに先生と看護婦さんが、懐中電灯を手に暗闇から出て来てくれた。「とりあえずここに寝かせてください」と言われたところが、診察室の前の廊下だった。私は、とまどいながらも、家を出るときに母が持たせてくれた息子のお気に入りのバスタオルを敷き、その上に息子を寝かせた。すぐに大きな裁ちはさみで息子の洋服が切られ、胸に注射をうたれ、口には手動の呼吸器がつけられ、人工呼吸と心臓マッサージが始まった。私達は、息子の体を温めるために体中をさするように言われた。

暫くして、看護婦さんが「続きは、お母さんがしてください」と言った。とまどう私に「あなたがしないで誰がするの!」と言った。

その場の様子はとても異様だった。私達の隣には、歳の男の子の心臓マッサージをしている家族がいた。あるときは黙々と、ある時はその家族と、つぶれた家の話など世間話などをしながら心臓マッサージをしていた。隣のソファーでは、すでに家族を失った女性が呆然と私たちの様子を見ていた。時々、病院のあちらこちらで名前を呼ぶ声と泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

その後、何度か先生が様子を見に来てくださった。「もう、心臓が動く可能性はありません」と先生は言ったが、必ず心臓が再び動き出すと信じていた私は、心臓マッサージをやめる事ができなかった。そんなやりとりが何度か繰り返された後、「次から次と治療をすれば助かる人が運ばれてくるのでこの場所を開けてほしい」と言われた時には、心臓マッサージをする手を止めるしかなかった。温かかった息子の体は、あっという間に冷たくなってしまった・・・。息子の名前を呼びながら泣いた。

病院の公衆電話で主人に連絡をとろうとしたが、連絡がつかなかったので、関東に住んでいる主人の父に電話し、息子が亡くなった事、 宝塚市 にある私の父の会社の保養所に避難する事を伝えた。

病院をでた所で、娘を連れてきた母と弟家族と合流できた。車を取りに帰った弟を病院の駐車場で待っていた。空には、ヘリコプターが飛んでいた。母が、私にと手渡してくれたマフラーを息子の首にまいた。「死んじゃったのに寒くないかなぁ・・・」なんて思えるほど、そのときの私は冷静だった。車のラジオが「死者四十六人・・・」と伝えた。「たった四十六人の中に入ってしまったんだ・・・」それが、私のそのときの感想。

宝塚へ行く途中、阪神高速が落ちているのが見えたが、映画のワンシーンを見るような感覚で、大変な事が起こったとも思わずそれを見ていた。山を越える時に大渋滞に巻き込まれた。対向車線からは、車が走ってくるから大丈夫だと思っていたが、大渋滞の先は、折れて道をふさいでいた電柱だった。

保養所についたのは午後時。すぐに主人に電話をした。私は、息子の死を告げた後、水や食べ物など必要なものを主人に伝えた。主人が来るまでの間、お葬式の手配、検死などを済ませた。その保養所を借りて、息子のお葬式をすることになった。

主人は、十七日午後時に山口を自分の車で出発し、姫路まで移動した。そこからは、父の会社の方の車で避難先の保養所まで連れてきてもらった。主人が、保養所についたのは、十八日午前二時。主人は、息子のための両手一杯の花束をかかえて部屋に入ってきた。そして、息子との対面、息子の顔をなでながら名前を呼んで泣いた・・・。

手配が早かったおかげで、ひつぎやドライアイス、そして、葬儀、火葬の手配ができた。しかし、祭壇やお花は用意できないとのことだった。そこで、知り合いのお花屋さんが、お店のお花全部でお花の祭壇を作ってくれた。私達は、一月二十日、たくさんのお花に囲まれた息子を宝塚の火葬場の子供専用の炉で見送ることができ、無事に火葬することができた。そこでであった人達は、ほとんどが普段着で遺影を用意できた家族もほとんどいなかった。幼い女の子の「ママぁ、ママぁ」と泣き叫ぶ姿が、ひとり旅立った息子の姿と重なった。その女の子のことが、今でも私の記憶の奥底から消えない。

そんな場所にも、救援物資のパンが届けられた。奪い合うように人々が、それに群がった。駐車場では、火葬の手続きができていない方の棺やブルーシートに包まれた御遺体が山積みになっていた。

私達は、お葬式の日後、山口県の自宅に戻った。被災地では手続きをするのも大変だと聞いていた災害弔慰金も、その市でたった一人の犠牲者だったということで、市長さんがわざわざ家に届けに来てくださった。

家に入ったとたん、息子との幸せな思い出がよみがえり、張り詰めていた私の心の糸を切った。私は、その思い出に押しつぶされ、そのまま悲しみから抜け出すことが出来なくなった。

隣に寝ていた息子を助ける事ができず、たった一人天国に旅立たせてしまったのに、なぜ私は生き残ってしまったのだろう・・・。悲しみと自責の念と後悔が頭の中でぐるぐる回っていた。

私は震災を経験していない人たちと交われない孤独と、テレビの中の震災を経験した人達とも、一緒に泣くことも頑張る事もできない孤独の「二つの孤独」を抱えながら、一人泣くことしかできなかった。わずか一歳半の娘の命をつなぐための世話をするだけで精一杯だった。

家に閉じこもって泣くだけの生活をしていた私だったが、主人が休みの毎週末だけは、街に出て衣料品や食料を山ほど買い、ダンボールを何箱も送った。その救援物資を送ることが、私が被災地とつながるための細い糸であり、その時の私の生きる力にもなっていた。

ある日、母が、一枚の新聞記事を送ってきてくれた。息子さんを亡くされたお母さんが投稿した記事だった。身近に感じ新聞社に問い合わせをした。そのお母さんとの交流が始まった。異常だと思っていた自分の悲しみがそうでないことを知り、孤独から解放され、私は少しだけ顔を上げて生活できるようになった。

震災から四年後、主人の転勤で「憧れの被災地」に戻ってきた。これで、私は色んな人と震災体験と悲しみを共有できると思った。しかし、そんな私を待っていたのは、「いつまでも過去から歩き出せない人」という言葉だった。当時の被災地の人々は「復興」を目指し頑張っていた。そんな時期だったのかもしれない。

私が山口県で生活していた空白の年間に、被災地はゆっくりと歩き出していたのだった。あの日から時間が止まったままだった私はその波に乗り遅れてしまい、その復興のスピードに付いて行くことができなかった。再び、悲しみや苦しみを表現することが出来なくなり、自分の時間の流れの中に閉じ込もるようになった。

年経った命日に、息子のためにホームページを開設した。そこで私は、同じ経験をした方達と出会い、自分の心の中を吐き出すことができた。そのホームページを通じて多くの方と出会い、娘の存在の大切さや生きる事の意味を考えるきっかけになった。

震災で大勢の人が多くのものを失った。そんな人たちが、この年、何を考えて生きてきたのか。笑顔の奥で流している涙があること、新聞やテレビなどで想いを伝えている人たちの陰で、いまだに悲しみや苦しみを出すことができず一人で抱える人たち、そんな見えない想いにそっと寄り添う心を持ってほしいと思う。

息子の死によっていろんなことを考えて生きてきた。息子への思いが今の私の原動力になっている。これからも一歳半で天国へ旅立った息子の「命」と、生き残ってくれた娘の「命」、そして生き残ってしまった私の「生」の意味を捜し求めて、しっかりと前を向いて歩いて行きたいと思う。

追記

この原稿をまとめているときに、和歌山で震度五弱の地震が続けて二度起きた。震災を覚えていない娘だが、不安と恐怖で大きなショックをうけたようだ。一歳半だった娘は、彼女なりにこの九年半をいろんな想いで生きてきたことだろう。娘は、これから「阪神大震災」と「きょうだいの死」と向き合うことになるのかもしれない。向き合うことは辛いことだけれど、彼女自身の力で生きる力に変えてほしいと願う。そんな娘をそっと支えるためにも、私は生きなければならないと心に強く誓った。

(注)筆者が主宰する「将君のホームページ」(http//www.ne.jp/asahi/sho/yu/)もぜひご併読ください。ホームページは、重たい体験をされた被災者がその記憶を記録し、思いを発信する場として、また、共通体験をした方々が連帯し、語り、癒しあう場として、大変有効なツールです。(高森 一徳)