亡き娘との十年

三川 範彦 七十八歳  兵庫区


娘の死

阪神大震災から十年、何と長かったことだろう。娘が亡くなった悲しみはいつまでも続いている。 あの日、家は完全に崩壊し屋根がずり落ちて、土の中から娘を引き出した。西市民病院に運んだが駄目だった。それからパジャマと病院のスリッパで一週間過ごした。

幸いにも檀那寺は被害が少なかったのでお世話になれた。亡くなられて長い間置き去りにされた方は本当に気の毒だった。
 お骨をお寺に預けて、姉の家にお世話になった。ほかの被災者の方々の苦労のことを思うと申し訳ないほど、姉の家ではよくしてもらった。親戚、友人、娘の会社の人達にもよくして頂いた。そして情けない程よく涙を流した。七日、七日にお寺にお参りに行って、娘のお骨と離れているのが辛かった。

プレハブ住宅を置いて妻と二人で内装して、トイレ、台所が出来た。六月十六日の夜、お骨を迎えに行った時は涙がとまらなかった。翌十七日、棚の上にお骨を置いて花を供えて、お寺さんにお参りに来て頂いた事は一生忘れない。

追憶

 娘の名は多永子(たえこ)三十二歳だった。小さい時は新聞紙を固く巻いて、私とチャンバラごっこをした。健康でたいした病気もせず勉強もそこそこ出来た。
 中学校、高等学校は卓球部で日曜祭日もなくよく頑張った。大学も現役で公立に入って奨学金を貰い、親には何一つ世話をかけなかった。

 私は昭和五十一年喘息になり、入退院を繰り返し仕事もやめざるを得なかった。私は娘に何もしてやれなかった。娘は就職も自分で決めた。よく勤めていたのだろう。会社の方にもかわいがられていた。
 おとなしい子で化粧も殆どせず、イヤリングもした事もない。私達の結婚二十五年にはお小遣いをくれた。娘は私達の希望であった。

 震災は私の人生のすべてを奪った。しかし、あきらめねばならない。他にも六四三二人も亡くなられた人がいる。天災である。運が悪かったのだ。

 三月には地下鉄サリン事件があり、十数人が亡くなられた。今年は、次々と子供が殺される忌まわしい事件が続いている。ご家族の方の心はたまらないだろう。
 子供のいない人もいる。病気や事故で亡くなられた人もいる。娘は多くの人に惜しまれた。私は多くの人に慰められた。私は感謝しなければならない。  

格差

阪神大震災の地響きは、下から突き上げられるように断層に沿って大阪まで走ったが、神戸でも山の手はうそのように被害はなかった。 長田区 の丸山地区では棚の物さえ落ちなかったと聞く。須磨の高倉台では電気、水道、ガスも止まらなかった。被害の大きかった長田地区から、妙法寺を山手に行く程被害は少なくなっていく。被害の少なかった人は年と共に震災と疎遠になっている。東京などは忘れている人が多い。

震災から六年目、立木義浩氏の撮影するモデルの募集があった。プレハブに住む老夫婦のありのままの姿で応募をした。立木さんが数人連れで私と妻の写真を撮ってくださった。「KOBE・ひと」の写真展は好評で各地で展示された。知人が「君の写真が載っていたね」と声をかけてきた。しかし、写真の下の小さい字の説明に娘を亡くしたとあるところを読んで、「震災で娘さんを亡くされたね」と言う人はいない。気を使ってか。

私も震災の事は言わない。最近では聞く人もいない。

消えた木の柵

プレハブの内装が出来て一応落ち着いて、妻と二人で土地の境界に杭を打ち、板を打ち、ロープを張って有刺鉄線まで付けた柵を二十メートルも造った。三年目になって次々三階建ての立派な家が建ち出した。

裏の人が新築工事をする日になって、私の庭を通してくれと言ってきた。南側に広い更地があるのだが、使わせてほしいと申し入れたところはっきり断られたと言う。

私は近所のことだからと、車を横にまわして快く承諾すると、早速建築業者が植木鉢をどけて、大型トラック、シャベルカー、ミキサー車まで当然のように次々通った。揚げ句の果てに、単車から自動車を駐車場代わりに置きっぱなしにする始末である。

私の車は通路を空けるために、横の狭い通り道に置く状態である。あまりの事に注意すると、むっとした顔で駐車場には使わなくなった。棟上げする段階で木の柵を全部取り払ってしまった。

一言断ればこちらの気持ちも違ったのに、みすみす仕事に困るのが目に見えているのでそのままにした。

施主は遠隔地に住んでいるので建築業者任せである。施主は何も知らない。私も仲良くしている。現実に家の入口であり、花壇を造り自動車を置いているので、少しも断りにくいことではなかった。しかし、建築業者は本当に困っていただろう。二十メートルの柵はなんやかやで影も形もなくなってしまった。

私の土地は借地である。平成十年、隣家の境の事で土地を売ってもよいとの話が出た。間に地主の不動産業者があり、ずるずると一年半も引き延ばされ、交渉を打ち切るところまでいった。一年半、何と長い嫌な思いをしたことだろう。よくある建築業者と不動産業者との嫌な思いを私も経験させてもらった。

家の方も落ち着いて、私は碁席に気なぐさめに、妻は老人体育大学から卓球に励んでいる。

逝く人来る人

震災の時にお世話になった建具屋さんが急死した。震災の時にすぐ駆け付けてくれて、「何がいる」と言ってくれた。私が「軽トラックが欲しい」と言うと、翌朝白川の工場から軽トラックを持って来てくれた。このトラックがどれほど役に立ったことか。

それから内装のドアを数枚、「使うように」と、くれた。また木材店を紹介してくれた。わたしより十歳は若かったのに。

震災前に碁席の友達が私の家に碁を打ちに来た。娘がコーヒーを出した。ちょうど娘がコーヒーに凝っていて、会う度にコーヒーがおいしかったとほめてくれる。私より二歳年上で虫歯が一本もない元気な人だった。震災後は一月十七日に必ずお参りに来てくれた。

平成十一年に、入院していると聞いてお見舞いに行くと、鼻から口から管を入れられて話も出来ない状態で手を握ったのが最後だった。二ヵ月で亡くなった。

平成十三年、岡山の母方の従兄弟が亡くなった。子供はいなかった。平成十四年父方の従兄弟の奥さんが亡くなり、半年を経ずして本人も亡くなられた。親戚、友人が次々と亡くなり寂しくなっていく。私ももう七十八歳、覚悟しなければならない。

娘の卓球部の親友がお参りに来てくれた。その後毎年来てくださる。震災の年一歳だった女の子の次に、二年たって次女が生まれて、三人目がもう四つ。皆女の子でやさしくしてくれる。美しいガラスのコップも頂いた。きれいなお手紙も添えて、一番下の子がアンパンマンの本を出して、いろいろ説明してくれる。

ご主人が私と同じ大学で、五人揃って毎年来てくれる。孫が来たように慰められる。本当にありがたく思っている。子供の大きくなるのは早いもので、自分の年をとっていくのを忘れている。

独居痴ほう老人

以前近所に一人住まいしていた女の方が震災に遭った。市内の一番勝手の良い所の仮設住宅が当たった。それでも不足を言いながら、前の所に十坪程の平家を新築した。

三年程前まではそれほどでもなかった。私が行くとお茶を入れてくれ、妻とも日帰りの旅行にも行っていた。右隣はマンション、左隣は営業をやめた家、裏はガレージ、前は建材店倉庫、コの字形の奥の家でもう八十歳、女一人で住んでいる。人が来ても戸を閉めて会わず、掃除はせず、風呂にも入らず、痴ほうは進んでいった。平成十三年になると、お米やお金を借りに来るようになって、食事にも不自由している様子だった。

在宅介護支援センターの方々の努力で、やっと家の中に入って話が出来るようになった。民生委員、ケアマネージャー、自治会の世話役で大掃除、ケアマネージャーがお金を立て替えて食べ物を与えていた。私達が皆の納得の上金銭の管理をして、訪問介護のヘルパーを入れ、いろいろ買い替えてやっと人並みに住めるようになった。

妻とケアマネージャーとで病院で脳の診断、それから二人の悪戦苦闘の末、やっと平成十六年の一月十七日に施設に預けることが出来た。やっとほっとした。一人暮らしの老人の死が分からずにいたという事がなくて済んだと思うと、これも介護支援センターの方、妻の奮闘と感謝している。

忘れてはならないこと

今年は上の姉が膝に人口関節を入れる手術をした。調子よくいっていたのが突然骨折して、再手術でリハビリのやり直しだ。一人暮らしで下の姉と妻とで毎日病院に通っている。姉はもう八十八歳だ。

昭和二十年三月十七日の空襲で焼け出されとき、父母と五人手を取り合って、火の中を逃げた。別居して亡くなった祖父をトタンに乗せて荼毘にふした。

あの時は避難所も仮設住宅もなかった。食べ物もなく借家を転々とした。大空襲の体験者が「神戸空襲を記録する会」を一九七一年に結成した。参加者は八十人程。高齢化して語り継ぐ若い者がいないという。太平洋戦争で帰還された方も、戦死された方に悪いと思うのか、口を閉ざして多くを語らない。強いて聞くと「内地の方も苦労しているから」と言われる。太平洋戦争も遠くなった。

阪神大震災も年とともに、また遠隔地になる程忘れられていく。もう震災は一月十七日だけで、遠い所に行ってしまった。私たちで娘の思い出を悲しみとともにかみしめて行こう。

私にはこの十年いろいろの事が起こった。残った人生を人のお世話にならないように心掛けて、静かに生きていきたい。

しかし、あの時リュックサックを背負ってボランティアに来てくれた、全国の青年の美しい気持ちは忘れない。無料でコーヒーを出した日本人の助け合いの気持ちは嬉しかった。未曾有の大地震、想像を絶する被害、そして駆け付けてくれたボランティアの若者を忘れてはならない。

(注)筆者の手記は、第一〜五巻にも掲載されています。