娘の記憶を残したい

小西 眞希子 四十五歳 主婦  灘区


あの地震で私はかけがえのない五歳の長女希(のぞみ)を亡くしました。当初は彼女の死を受け止められず、胸がしめつけられ、助けてやれなかった自分を責め続けました。生きている事が本当につらい日々でした

 そんな時「震災で子供を亡くした親の集い」の存在を知り、すがるような思いで足を運びました。月に一度、子供を亡くした親たちが集まり、つらい気持ちや、亡くなった子供たちの事を話します。人目をはばからず泣ける場所でした。  
 そんなとき「えらいね、私ならとても生きていけないわ」と人に言われました。「私は生きていていいのだろうか。なぜ生きているのだろう」と考えさせられました。言った人も「頑張ったね」という意味で言ってくださった事はわかっているのに、素直に聞く心の余裕もありませんでした。
 

 希が生きていたらと考えると、幼稚園を卒園する頃、小学校の入学式を迎える頃、母の日、父の日、誕生日、と節目、節目が本当につらく、そんな時は家の中でじっと一日が過ぎるのを待ちました。そんな事が何年も続きました。  
 主人は神戸に、私は下の娘と実家でという生活が地震の年の夏まで続きました。私が両親やまわりの人の温かさにつつまれて生活していた頃、主人は神戸の地で悲しみとつらさの中で生活していました。今でもその溝をうめることができません。  

 秋に仮設住宅で三人の生活ができるようになり、年末には復興住宅へ移りました。そして地震から四年後の春、希と暮らした町に帰ってきました。
 そこには「のんちゃんのママ」と呼んでくれる人がいました。大きくなった希の友達がいました。そしてその中に希が生きていました。
 五歳になった下の娘の手をひいて、希と歩いた道を歩きました。ゆがんだ道も、落ちた高架も、「夢だったのだろうか」と思うほどきれいに直っていました。
 二階建が並んでいた町は三階建てが建ち並び、はじめは圧迫感さえ感じました。春にはきれいな花をつけていた大きな桜の木はなくなっていました。

 今では、その町並みにもすっかり慣れ、五年生になった下の娘は、希が通うはずだった小学校に毎日元気よく通っています。姉思いの娘は何かあると必ず仏壇に手を合わせて希と話をしています。一月十七日にともされるローソクの灯りを「命の温かさ」と感じる娘に育ちました。どこにいくのも「お姉ちゃんと一緒。私達は四人家族だから」と言います。  
 彼女の成長の中に必ず希がいます。私には何よりうれしい事です。小さい頃から、あなたの笑顔に支え続けてもらいました。本当にありがとう。  

 この十年いろいろな人との出会いがありました。  
 同じように家族を亡くされた大勢の方々、希の絵を描いてくださった画家の方、取材を通して知り合った記者の方、震災後暮らした所で知り合った人達。希が会わせてくれた人たちです。  
 「おかあさん頑張れ」と言ってくれているのかもしれません。二人の娘に支えられ、出会いを大切に、これからも「家族四人」でがんばっていこうと思っています。

 
今神戸は十年目に向かって、いろいろな活動をしようとしています。けれど、どれだけの人がそのことを知り、参加しようとしているのでしょうか。  
 娘の通う学校もほとんどが地震の後に生まれた子供達になりました。区画整理が進み、大きなマンションが建ち並び、町には新しい住人がふえ、地震は遠いものになってきています。  
 

 私達家族は今「一・一七希望の灯り」というNPOの活動に参加しています。参加されている方は、身内を亡くされた方が多いのですが、他府県から参加される方も少なくありません。他府県の学校で地震の事を勉強して、一月十七日に全員で折った千羽鶴を届けてくださる先生や生徒さんもいます。本当にうれしく思います。
 

 亡くなった娘たちの事を忘れないでほしい。特に地震を知らない子供達には、大きな地震があった事、その地震で多くの人が亡くなった事、その一人ひとりに家族があり、それぞれがつらい悲しい思いをした事、地震で大変だったけど、大勢の人の思いやりややさしさにあふれていた事を知ってほしい。  
 地震を風化させないでほしい。十年で終わりではありません。十年目を前にして改めてそう思います。そのためにできる事を、少しずつ頑張っていきます。

(注)筆者が第一巻に投稿された「天国へ行ったのんちゃん」には、大きな反響が寄せられました。特に平成九年、阪神大震災を記録しつづける会がホームページを開設した後からは、各地の中学校、高等学校、教育委員会から、教材やホームページに転載させてほしいとの依頼があいつぎました。被災地を訪れる修学旅行生の資料教材としてもよく使われています。ぜひご併読ください。(高森 一徳)